02.おかえりなさい 後編
「リリィ!」
「ダルお兄様…?」
カーダルは、セパスが出て行ってからすぐに、驚異のスピードでやってきた。息が多少上がっていることから、おそらく廊下を駆けてきたのだろうことが窺い知れた。
彼はずんずんと進むと、妹の身体をかき抱いた。
「目覚めてよかった…!」
その言葉は、本心からに違いなかった。震える声。震える肩。雛㮈はそれを見やり、自分のトレイを持ち上げ、退室した。今は、家族水入らず、話をする時だろう。自分は邪魔をするものではない。
幸い朝食は残り僅かだったので、行儀は悪いが、扉の前で、もぐもぐと咀嚼する。食べ終えると、雛㮈はトレイを戻すために調理室へ向かった。
胸の奥からじわじわと湧き上がる喜びを噛み締めながら、雛㮈は考える。
そろそろ、この屋敷を出ることも考えなくては、と。
良い待遇をしてもらっているが、所詮は部外者だ。ニキとラルクを住まわせてもらっていることもある。それに、リリーシュが目覚めたということは、屋敷もしばらくはドタバタするだろう。そんな時に居候を続けられる程、神経は太く無いのである。
(ああでも、私の取り扱いは王様が決めていたし、私の一存で決められることでもないのかな…)
自分の給金も、一度しっかり確認したいところではある。どのレベルの部屋なら借りられるのか、食費やら何やらはどのくらい掛かるのか。ラルクの食費は嗜好品扱いとしても、ニキの食費は必要になる。
そもそも、自分の疑いは晴れているのだろうか。
ふとそんなことを思う。
屋敷にて継続して“監視”を受けるとなった理由は、まだ城内に入れるには不安だったから、という理由のはずだ。故に、雛㮈の疑念が晴れていなければ、一人で暮らすことも難しいかもしれない。
調理室にトレイを返して、後ろ手で扉を閉めた。それから、ぽつんと呟く。
「アイレイスさんに相談してみようかなあ…」
「何を?」
独り言に返事があり、驚いて振り返ると、ニキが「ごめんごめん、気配消してた」と笑った。
「で、何を相談すんの?」
「ええっと…実は…」
かくかくしかじか、で。
自分の考えを告げてからニキの顔を窺えば、なんとも言えない顔をしていた。
「…それ、先に兄さんに相談してみれば?」
「カーダルさんに?」
目を瞬かせる雛㮈に、ニキは真っ直ぐ向き合う。
「そ。だってお姉さん、兄さんのこと信じてるんだよね。なら、一番に話した方がいいってー」
その後ポツリと「でないと兄さんが荒れる…」とこっそり本音を零した。
「オレは兄さんの考えてることなんて知らないからさ、ちゃんと話し合ってみればいいと思う。それに」
一度、言葉を切ってから、ゆっくりと話す。
「お姉さんも、自分の気持ち、ちゃんと伝えた方がいいよ」
自分の気持ち。と復唱する。
それは、今考えていることもそうだし、もしかしたら、自覚し始めた恋心にも通ずる部分かもしれない。
「………ニキさん」
「ん?」
「ありがと」
ぎゅっ、と抱き着く。まだ小さい身体は、すっぽりと腕の中に収まった。
くすぐったかったのか、身を捩るニキに、えへへ、と笑い掛ける。
「こっちのことも、まだまだ分からなくて。でも、ずっと甘えたままじゃいけないから」
自分の居場所を見つけたい。自分は、この世界で生きていくのだから。
それに。
「アイレイスさんやカーダルさんと、対等に立てるようになりたい」
気後れすることなく、同じように立って、笑い合いたい。
彼らと、一緒に生きていけたら、と、思うのだ。
彼らが何を抱えているのかは分からない。ただ、今自分が行っていることが、少しでも彼らの負担を減らすキッカケになれば、これほど嬉しいことはない。
「もちろん、ニキさんとラルクさんとも、一緒にいたいよー」
「…お姉さん、ちょくちょく恥ずかしいことを平気で言うよね」
はふう、とニキは息を吐いた。
「ヒナ」
「あれ、カーダルさん。リリィちゃんは?」
「部屋で休んでる」
起きてすぐだ。疲れも出たのだろう。もう少しお喋りしたかったな、と少し思った。
「じゃ、オレは外で鍛錬してくるー」
腕の中からするりと抜け出たニキは、ひょいひょいと歩き去った。それが方便だったのか、それとも本当だったのかは、定かではない。
「お昼には戻ってきてくださいねー」
声を掛けると、ニキは振り向かないままひらひらと手を振った。その背中を見送ってから、カーダルに向き直る。
「カーダルさんは、お仕事に行かれるんですか?」
「いや、さっき連絡をした」
今日のところは、休むことにしたらしい。そうなんですね、と返すと、じ、と見つめられた。
「あの…?」
「お前の休暇も、今日で終わりらしい。さっき通達があった」
「そうですか」
不満は無いが、リリーシュが目覚めてすぐということもあり、残念な気持ちになった。ただ、アイレイスの研究が進んだのであれば、それは喜ばしいことだ。
「カーダルさんは、それで私を捜してたんですね」
「違う」
ぽん、と手を打ったが、即座に否定される。んん、と首を傾げる。
「…部屋、気付いたらいなかったから」
どこに行ったのかと思い、捜していたらしい。気に掛けてもらえるのは、少し、嬉しい。
「すぐ攫われる上、すぐ危険な目に遭うし。いっそ…」
「いっそ?」
「………なんでもない」
誤魔化された気がした。しかし雛㮈が面倒ごとに巻き込まれる率が高いのは事実なので、それ以上突つかないという選択肢を選ぶ。突っ込まれて痛いのは、こちらの腹だ。
「明日から、忙しくなる」
窓の外を見たカーダルが、目を細めながら言った。
「そうなんですか? 折角リリィちゃんが起きたのに、残念ですね」
「だから、だ」
その声は、不思議な響きを持っていた。
待ち望んでいたものが、目の前に現れた時のような。
途轍もなく怖いものが、目の前に現れた時のような。
縋るような期待が、その瞳の奥に見えた。その真意は、どこにあるのだろう。
「…全力で支える。だから、力を貸して欲しい」
揺らぎの無いその瞳が、弱々しく細められるところを、初めて見た。
なんの事情も分からないのに。
「―――はい」
自然と、雛㮈は答えていた。
「その代わり!」
「その代わり?」
「落ち着いたら、私の話、聞いてくれますか?」
話? と、カーダルは首を捻った。
「急ぎなら先に聞くが」
「や! こ、心の準備が! ですので、是非、後で!」
もう少し、時間を置かせて欲しい。告白する訳では無いが(多分)、しかし自分の気持ちを吐露するのは、それだけで勇気がいることだ。
「何の話だ?」
「あ、えっと…なんでしょう、強いて言うなら、今後の処遇について…?」
「処遇? 何か不満が?」
「不満というか…」
そこまで言って、ハタと気付く。
「言いません! 今は言えません!」
訊かれるがまま答えていたら、そのうち全て話してしまいそうだ。後で話すと言ったのに。
「………………ふうん」
やけにタメの長い、ふうん、だった。
それなら、と一歩下がったカーダルの服の裾を掴んだのは、反射的な行動だった。
このままじゃ駄目だと思った。
「絶対、話します。カーダルさんと、もっとちゃんと、お話をしたいって思います。本当ですよ」
きっと。
「ふうん…」
そう言った彼の口元が、一瞬弧を描いたことは、気のせいではなかったと思うから。自分の想いは届いたのだろうと雛㮈は感じ、自然と笑顔になった。
頼ろうとして、頼りきれずに。
どこまで自分の体重を、相手に預けていいのか分からずに。
ゆっくり、ゆっくり、近付いては離れて。
怖くて、面倒だけど、必要なこと。




