8章
誰一人賛成などしなかった。ま、当たり前である。一応念のため、彼に台本は渡し、その場は完全に皆頭が真っ白になり、解散となった。
確かに、非常に単純計算では主役が駄目なら代役を立てれば事は済む。いや、でも、しかし、仮にもシンデレラ役を男がこなすかぁ?
ありえない。断固ハイパーありえない。そんな調子でわたしはのらりくらりと自転車を漕ぎ、家に辿り着いた。
「おっかえりー」
お店から入るといけないので、裏口から入ると、姉の玻璃の声がする。声がすれど姿は見えないんで、靴を靴箱に入れ、ガラスの扉を開けて居間に出ると、スナック菓子片手に寝そべりつつ、テレビをつけっ放しでファッション雑誌をめくる姉の姿があった。うーむ、超自堕落。千年の恋も冷めるなー、この格好は。
あきれつつも、いつものことなのでわたしは一応尋ねる。
「店番は? お父さん?」
「うんにゃ。ゆらちゃんがやってるよ。あんた、ずいぶんのんびり帰ってきたのね。働け、若人よ!」
片腕を力強くかかげてみせる。自分のことを棚にあげてよくもまーいけしゃあしゃあと。さすがだ。それに今日は貴重な貴重な全オフの日。戦士にもたまには休息が必要なのだ。
ちなみにゆらは、かなり長いことウチのバイトをやっている。晩飯まで食べていく(ゆらが作ることすらある)くらいの仲で、殆ど家族ぐるみだ。
「それはそーと、爽音っち停学だって?」
わたしは鞄を下ろし、冷蔵庫を開けて何か無いか探しつつ話を聞く。冷蔵庫には、あー、お茶しかないか。でかい牛乳プリンがあるが、大きな文字で『はり』と書いてある。触らぬ神に祟りなしというやつでこれは黙殺。ほら、太るし。
「プリン食ったらころす」
「食べないっての。で、なんで爽音っちの事知ってんの? お茶飲む?」
「のむーっ。ってか、ソースなんかゆらちゃんしかいないじゃん。すげー顔青ざめて帰ってきたから何だと思って根掘り葉掘り聞いちゃったよ。ひでー話だねえ」
わたしはガラスのグラスにペットボトルのお茶を注ぎつつ、はぁ、とため息をついた。
「ま、志岐センなら何があってもおかしくないって。てか、シンデレラで派遣社員ってのもマジに頭おかしーし」
「最初は吉原の遊郭で、次がソープ、次にお水だよ。軌道修正の果てだよ。でも、新倉が主役なんだよ」
バリッ、と一際大きい音を奏でた後、口にものを入れたまま玻璃は声を出した。
「いーじゃんいーじゃん。見たいなー、彼の女装姿。ただの美女より、女装子の方が萌えるケースもあるとわたしは見るね」
お茶を玻璃に突き出しつつ、わたしは首を振る。
「ありえないって! ナマモノだよナマモノ。いっくら顔が綺麗でも生理的に無理だから!」
ぷぷぷ、と噴出しつつ玻璃はお茶を受け取る。
「なんでそんなムキになるのー? ムキになるような話題じゃないじゃん」
「ムキになんてなってないから! ホント!」
「どーだか」
ふふふ、と鼻で笑いつつ、お茶をすする玻璃。むう、いつもながら食えないやつ。
そんなとき、店から声がする。ゆらの声だ。
「硝子ちゃーん、電話ー」
「はいよー。誰から?」
「新倉くんからだよー」
……え。
凍りつくわたしの頭。そして噴出す姉。
「ちょっ、すごいタイミングで来るねあんたのナイトは。なんであんたの携帯じゃないかわからないけど。まあ、ある意味度胸あるね、うん」
なんで新倉が携帯にかけてこないか。それは教えていないからだ。当然。で、こっちの店の電話番号は、少し調べればすぐにわかる。非常に答えは明快。
や、そうじゃなくて、何でかけてきた?
別にゆらに恨みは無いので、電話口にサンダルに履き替えて出る。徒歩約三十歩。
「はい、賀上です」
「賀上、折り入って頼みがある」
いきなり開口一番から頼みとは、不躾な。
「はい、何を?」
「合わせ稽古を頼みたい」
は?
ちなみに、わたしが一人でパフェをつつきつつ優雅に携帯でメールをやり取りし、ファッション誌を数冊立ち読みし、漫画を一冊買い、焼きたてのワッフルを順番待ちしてまで買い、家に辿り着いたのは衝撃の告白からきっかり一時間半後である。
ぜんぜん時間経過はしていないのだ。
なのに、もう合わせ稽古とは。いったいどういう事なのか。
「ちょっと、新倉くん、まさか台本」
「何度も通読した。全員の台詞もほぼ覚えた。だが、ト書きだけでは流れが掴めない。劇は一人でやるものではないからな」
驚いた。素直に驚いた。
ここまでやる気を出してくるとは。まさか。
「新倉くん、まさか爽音のことで」
気に病んでるのか、と。そう思ったのだわたしは。
「松見のことか。悪いことしたと思ってるよ」
やっぱり。しかし、なんであんな事したんだろう。別に放置していても、爽音は自殺するようなタマではない。タマは失礼か。
「ま、その辺聞かせてよ」
「あ、ああ……」
少し歯切れ悪く新倉は返事し、そのまま電話を切る。
サンダルを脱ぎ、裏口へと戻る。
「おねーちゃん、ちょっと出てくる」
「あいよ。で、ワッフル食っていい?」
あー。においを嗅ぎつけたのか。ありえない嗅覚だ。
「だめーっ。ゆらに一個あげて」
「えー」
さらにまだ何か言いたそうだったが、わたしは外に出た。