6章
明くる日、わたしは学校に行こうと起きた。
「あいた!」
起きた途端、スプレー缶が頭の上に落ちた。スプレー缶はカラカラと乾いた音を立てて、ベッドの下へと落ちていった。
ああ、朝から嫌なものを見てしまった。黒染めのヘアスプレー。絶対捨てたと思っていたのに。真っ黒は嫌だからってちょっと茶髪気味にしているあたり、前期型だろう。
ああいやだいやだ。本当にいやになってしまう。
山盛りにした錠剤の束と一緒に、わたしはクローゼットの奥底へと追いやった。
絶対に掘り返したくない、わたしのいやなもの。
まったく、最悪である。少し重い気分を引きずりながら、わたしは授業を受けた。ま、気分次第で待ってやくれないしね、学校は。
そして、今は凄い大声を聞いている。
「はーなーしーてー! もうダメなのあたしダメなの! もう死ぬっきゃないのウルトラ死ぬの! だから、ほっといてぇー!」
屋上の最終防衛ラインを軽々と踏み越え、あとちょっと気合いを入れると真っ逆さまというギリギリスレスレラインから爽音が叫ぶ。
そのもう少し手前では、生徒と先生で揉みくちゃで、大小様々な声が統一性皆無のカオスな状態と化している。ま、先生の叫ぶ声の殆どは教室に戻れ的な話だったが、誰も既に聞いちゃいない。
もう授業どころではない。めちゃくちゃだ。
状況がわからない?
奇遇だね、わたしもよくわからないんだ。
ほんのちょいと前、授業は特に何の問題もなく開始された。まー携帯をいじったりの、内職で次の授業の宿題をこなしたりの、落書きをしたりの、私語をしたりのと、いつもの様子ではありますが、それを評して何の問題もなかったというのは少し語弊があったかもしれない。でもそれってば全国津々浦々、どこの学校でもある事なので、差し当たってそれは特に問題ない。
で、たぶんその中の一つ、回し手紙って奴に問題が内包されていたのではないかとわたしは推理する。でも、それ自体は良くある風景なわけで、問題はやっぱり中身だろう。
中身には何が書いてあったか。それは、ヒエラルキーの最底辺、スクールカーストに飲み込まれかけていたあの新倉の事だった。
つい先日あんな事があった訳だし、わたしはなんとなーく、新倉を憎からず思っていた。けれども、面子をツブされたなんて思っている野球部の連中とか、美形で女子にちやほやされていた頃の新倉にねたましさを覚えていた男子にとっちゃ、今の状況は復讐のチャンスなのだろう。
男の嫉妬という奴はどうにも狡猾に動くようで、要はその紙には口裏を合わせるための内容が書かれていた。
ま、計画はとっても簡単。女だって噂すらある新倉を裸に剥いてやるぜ、って計画だ。
俺達がそれを達成するから、お前ら余計な事したら後でヒドイぞ、ってな訳で、見た瞬間に共犯かつ踏み絵という、何ともイヤーな回し手紙であった。
先生にバレれば、バラしたのは計画を知っているクラスメイトの誰かな訳だし、かといって新倉が逃げおおせればそれもまたしかりという訳だ。
まったく、集団の暴力というのは容赦がないのである。わたしはその場で一瞬破いてやろうかと思ったが、さすがに気が引けた。臆病だと言えばいい。でも、男子の集団を相手に大立ち回りを演じるには、わたしはちょいと病み上がり過ぎた。新倉には悪いと感じて、胸が相当チクリと痛んだ。
で、その回し手紙を爽音が読んだ途端、脱兎のごとく駆け出し、屋上からのノーロープバンジーを所望し始めたのである。
爽音の行動はぜーんぜん繋がらない。なんでさ?
ま、回りの人間とてそれは同じようで、動機は判らないにせよ、彼女の奇行の顛末を見る気は満々だった。間違いなく興味本位含有率混じりっけなしの100%。
ただし、にらみ合いは割と長期戦化していて、先生達は大音量の拡声器で説得するが、効果なし。膠着状態が続く。それすらもおもしろがるのが野次馬である。わたしもそうか。
しかし、純粋な好奇心だけで動いている人間とは別に、割と焦りまくってる一団もいたわけである。
言うまでもなく、回し手紙を送った連中はこの一件で自分たちの犯行が露見するのを凄く恐れた、と思う。
そこで奴らはあっさりこの事態を収拾し、且つ多分それ以上の最悪の事態を引き起こすだろう悪魔の権化を召還する事に決めたようだ。
もしこれが舞台ならば、わたしはライトを全部消し、次の瞬間会場を覆い尽くすくらいのドライアイスの雲を割って、一筋のライトの下、『We Will Rock You』をバックに奴を登場させるだろう。
さておき、その悪魔はふつーに階段を駆け上がってきた。
黒い革ブーツに黒いミニスカート、黒いロングヘアは絹のようにさらりと風になびき、左腕には赤い腕章がはめられ、そこには『面会謝絶』という文字が踊っている。そして何より、彼女が歩いてきた方角は保健室で、そこは基本的に白衣を着た養護教諭が詰めている。
しかし、歩いてきた彼女は、白衣の代わりに漆黒で染め上げたような、真っ黒の黒衣を身に纏い、黒いサングラス越しにこの奇妙な風景を観察するため、上がってきたのである。
いささかどころではなく、とてつもなく奇抜なこの女性こそ、志岐紬、我らが演劇部の顧問である。
そして、志岐教諭は開口一番叫んだ。
「華々しく散れ! 骨は拾ってやろう」
あちゃー。言うとは思ったけど、容赦なくやっぱそういう事言うんだ。
だが野次馬根性に火を付けるには十分な煽り文句だ。燃料投下としては悪くない、最高だ。みんな、固唾を呑んで爽音の様子を見守る。
「帰れ! 志岐センみたいな鉄の女に、わたしの考えなんてわかりっこない!」
「鉄の女上等。でもあたしゃアンタが何にそのちっこい脳細胞をフル活動させたかは大体判断付くんだよね」
それに対して、もうやけっぱちも良いところの爽音は、売り言葉に買い言葉とばかりに、鼻で志岐センを笑った。完全に向こう見ずな特攻体勢。地獄への片道切符を1ダース、いや1カートン買い込むほどの愚行。あーあ。
「何が判るっていうのさ!」
「ヒント:畔柳医院のとある科、二日前、午前十一時頃のカルテは私の手の中にあるぞ、松見爽音」
爽音の顔色がみるみる青ざめる。
余裕の体勢で動じず、黒衣に手を突っ込んで泰然自若と構える志岐センに対し、爽音の特攻体勢、脆くも崩れ去る。
「ちょっと先生! なんでウチの病院のカルテを!」
奈津希が声をあげる。畔柳医院は、奈津希の両親がやっている病院である。母親が医院長で父親が副医院長という体勢を取っていて、まあ何かと評判は悪くない。
「いやー、だってさ、あたしゃアンタのお母さんと知り合いなのさ。日舞仲間」
志岐センはにこりともせず奈津希に頷いてみせる。
しかし、これではっきりしたわけだ。爽音は病院にまつわる何らかの弱みを志岐センに握られていて、それがこの騒動の主原因というワケだ。
まるで志岐センが悪いような構図。でも引き金を引いたのは新倉への復讐。やっぱり結びつかない。そして当の本人、新倉はどこを見渡してもいなかった。
ま、本人はあの回し手紙の件は知らないワケだし、ま、いなくても別に問題はないか。
と、そのとき、わたしの心中を知ってか知らずか、校内のスピーカーからけたたましい大音量でがこだました。
「この学校の放送室は、この新倉明太が、乗っ取ったー!」
え。
聞こえてきた声は、紛れもない新倉の声だった。
まったく頭の整理が付かない。いやいやいや、大体、なんで放送室を?
そんなわたしのクエスチョンには一切答えず、新倉はまくし立てる。
「聞いているかな、松見爽音さん! 僕はあなたと今から取引をする。一方的に続けるので、抗議があるならその身をもって止めたまえ!」
先生達もポカーンとこの放送を聞いている。まあ、予想だにしないだろう、こんな放送。そして、その放送はやっぱり一方的に続く。
「ここにあるのは、畔柳医院のとある科、二日前、午前十一時頃の音声ファイルです。全部で十八分三十七秒、可逆圧縮で1.36GBの大容量だ!」
水を打ったように静まりかえる一同。そう、志岐センが脅しで口にしたのと同時間の今度は音声ファイルだ。何かあるのだ、その時間に。
爽音の顔はさらに青ざめた。余程知られたくない事に違いない。
「卑怯よ! そんなの、いつの間に!」
爽音はとばっちりを受けている、畔柳病院の奈津希を睨み付けた。
「わ、私は知らないわよ!」
困惑した様子で奈津希はかぶりを振る。そりゃ、自分で録音した訳ではないだろうし。
そんな事は知ったこと無しに、さらに新倉は続ける。
「今からこれを、みんな知っているこの学校の裏サイト、三つあるけれどもそれら全てにストリーミング形式で流せるようにアップロードする! だいじょうぶ、携帯からでもばっちり聞けるようになっている!」
生徒達の絶叫。みんなで携帯を取り出し、裏サイトをチェックする。なるほど、秘密のファイルをアップするような通知が三サイト全てに趣味の悪いチカチカしたバナーでされている。
更新ボタンを押すと、今度はその通知がシークバーに様変わり。0%から1%に変わっていく。
「みんな見てくれたかな? アップロードには少し、時間がかかりそうだ。予測時間は、えーと、残り二分四十三秒、いや三分六秒、あ、また二分三十九秒だ。少し時間に開きはあるが、残り約二分半だ。
ま、屋上からこの放送室に来るのに、丁度良い時間だな」
そうこう言っている内に、3%、4%とどんどんシークバーの表示は上がっていく。
その度、歓声が上がる。
爽音は頭を抱え、うずくまった。
「なあ。爽音よう。今のアンタに残された選択肢はとても簡単だ。生きて恥をその身でそそぐか、死んでその恥を全て白日の下にさらすか。そしてその選択は残り二分弱だ。どうするね?」
ぼそっと志岐センは言った。でも、それに対する爽音の返答は素っ気ないものだ。
「わ、わからない……」
「新倉はお前に生きて欲しいから、お前がこんな状況なら確実に放送室へ駆け込むと思っているから、こんなバカな真似をしたんだ。爽音、お前はさらに新倉に迷惑をかけ続けるのか? どうなんだ?」
「わからないわ! なんで、ここまで……」
「聞けばいいじゃないか。あの男もそれほど、バカじゃあないだろう」
次の瞬間、爽音は人混みをかき分け、猛烈なダッシュを決めていた。鮮やかなフォームからは、弱々しい死んでやるというオーラなど、微塵も感じられなかった。