2章
風を受けた剛速球は、遥か遠くの銀河の果てに届くや否やという場所まで、青空を真っ二つに叩き割って豪快に飛んでいった。
快打。ジャストミート。ばっちり金属バットの芯で捉えた、これ以上無いほどの最高の一打。あまりに調子が良すぎたと見えて、グラウンドを四方から取り囲む最後の番人、緑色で所々が錆びかけた、齢三十年をくだらないくたびれたフェンスを跳び越え、遥か彼方の小学校校舎まで飛んでいく。
打ち取られた坊主頭の男子生徒は、ぽかんと口を開け、勝ち誇った表情で金髪の髪を肩に届くまでそよがせて、わたしは金属バットを振り抜いたままの様子で、得意な表情を浮かべていた。
が、むすっと坊主頭の小学生はバッターボックスを睨み付け、声変わり前の甲高い声で、ガンガンと怒鳴った。
「病弱だから手抜きでお願い、ボールなんて来たらあー、アタシ死んじゃうカモーって言ってたじゃねーかよ!」
「はっはっはー、わたしのオスカー賞並みの演技に引っかかるなんて、まーだまだ、若いねーきみは」
青い青い、とわたしはバッターボックスに立って高笑いをみせる。そして余裕のホームイン。
我ながら小学生相手にひどく大人げない。リトルリーグの草野球にメジャーリーグの選手が真向勝負を挑むようなものだ。でも、病弱っていうのは本当の話だし、まー大人げないって意味では、わたしが話に乗る程度に、わたしが打ち取った連中は大人げないのだ。まあ子どもだし。
事の始まりは一週間ほど前にさかのぼる。
わたしはその日、二軒目のバイト先へと向かっていた。
バイトがかぶるのは珍しい話じゃない。なんせ、わたしは三個のバイトを掛け持ちしているんだから。
学校をきっかり終業時間に出ても、一軒目のバイトを終えるともうそろそろ七時を回る頃になる。そして、わたしはひどく古びたスーパーへと辿り着く。
外装も内装も、一昔どころか二昔ほど古く、わたしの知らない時代、『ショウワ』を色濃く感じさせる。湿気ですっかり剥げきった壁のペンキ、明らかに手描きで描かれた、デジタル臭の全くしない店舗の名称。しかも上から元々は何かを貼り付けていたのを無理に剥がしたとみえ、色落ちしているのがなんともみすぼらしい。そこかしこにはすっかり色褪せた防火を促すポスターが張られ、店舗改善のためのアンケートBOXには、紫外線を受けて黄ばみを通り越し、茶色をしたわら半紙の紙が備え付けられ、鉛筆は先が折れたまま。店舗の中には歌謡曲という言葉が死語じゃなかった頃の懐メロ(この言葉もド直球で死語ですが)が有線で流され、そんなとてつもなく時代に逆行した空間に店員はわたししかいなかった。
「いらっしゃい、テレスちゃん」
店主のトメさんはいつもそう言う。
半分ボケているのか、はたまたトメさんなりの冗談なのかはわからないが、わたしはテレスではない。賀上硝子、それがわたしの名前である。
ではテレスとは誰なんでしょうか。
それは、私の母である。
私には、母が二人いる。いや、いた。
一人は実母のアリス、そして、母の妹にあたるテレス。二人とも元々は外国生まれで、アリスがわたしのお父さん、鏡一郎と結婚してわたしが生まれた。外国生まれなだけに、髪の毛は金髪で、そしてわたしも金髪の血を受け継いでいる。
本来、金髪というのは劣性遺伝なので、日本人のように黒い髪と結婚すると、子どもは黒い髪を持つのが普通なのだが、まあわたしは運が良かったのか悪かったのか金髪を受け継いだ。
子ども社会において、今でこそ金髪に染めた子どももちらほらと見られるけれど、普通、小さい子どもであればあるほど、ブリーチ剤に興味を持って自分のなけなしのおこづかいを貯めて、スーパーヒーローの変身グッズや、魔女っ子ヒロインの変身ステッキや、宣伝を雨あられとし続けるお菓子やらの誘惑に耐え、ニコニコしながら買ったりはしない。だから親が染めているわけだけれど、わざわざ子どもの髪の毛の色を染める親はあまりいないわけで。
そんなわけで、当たり前だがクラスを見ても黒髪対金髪の比率は、後者が圧倒的に不利なケースしかなかった。個性重視の時代と言われる割に、割合に子ども社会は異端を嫌うわけで、まあ良くあるケースの例に漏れず、わたしはいじめの格好の餌食になっていた。
実母のアリスは非常におっとりとしていて、髪のことを言おうものなら、自分の責任を感じて大きな瞳から涙をこぼすような人だった。
相談? できるわけない。
子どもであるわたしから見てさえ、はらりと涙を流す態はどう見ても壊れそうな硝子細工のように繊細で、もし泣かせでもすれば、泣かせた方の心がキュンとへし折れて砕けてしまいそうである。
そんなこんなで子供心に、アリスに相談するのはまずいとは察していたので、わたしはもう一人の母、テレスに良く相談した。テレスは外国生まれの人にこう言うのも変だが、江戸っ子気質を持っていて、たとえ相手が誰であろうとケンカを売ったし、買ったし、子どもと全く同じ目線で子どもを怒った。
そのせいか、そのうちわたしへのいじめはなくなった。その代わり、テレスの方が子どもに大人気になってしまい、わたしは自分の子どものように分け隔てなく同級生と接するテレスを見て、なんだか独占できないもの悲しさをちょっぴり感じながら、ま、叔母さんだから仕方ないやー、と苦笑したものだった。
テレス叔母さんはこの古びたスーパーで働いていて、当時はかなり繁盛していたらしい。で、既に十年以上前に辞め、そこからこのスーパーの時は止まっている。
テレス叔母さんはわたしにとって憧れだった。彼女は何軒もパートを掛け持ちし、どこでも彼女がいるところは繁盛した。そんな姿を見ていたので、わたしはバイトを掛け持ちする事でテレス叔母さんに近づけるかな、という考えもあって、バイトを掛け持ちする忙しい日々を送っているわけだ。
話を戻そう。
わたしは、トメさんからテレス叔母さんと間違われるのが、それほどイヤではない。だから、訂正しない。
そして、トメさんは話を続けた。
「テレスちゃん、うちの孫の亮太郎がね、凄く困っているんだよ」
わお。これぞわたしの待ち望んだ依頼。
テレス叔母さんは良く子どもに慕われていた。それは、事ある毎に彼らのトラブルを、彼らの目線から解決していったからだ。
わたしはテレス叔母さんと間違われているのなら、彼女の名誉を傷付けないために、この依頼、受けねばなるまい。
「わかりました! わたしがどうにかします!」
と、胸を叩いてその場で安請け合いしたのが事の顛末である。
そして、亮太郎くんとやらに何が困っているかを聞いてみる。
開口一番、亮太郎君は告げた。
「高学年の奴らに、グラウンドを使わせて貰えないんです」
ふむふむ。
「そこで、勝負を挑んだら、野球で10点差を付けて僕らのチームが勝ったら、使わせてやろうって言うんです」
なるほどふてー野郎だ。そりゃ許せん。
「そこで、お姉さんの腕を見込んで、10点得点を入れて下さい! お願いします!」
はい? わたしの脳は少し停止した。
そこで監督を頼むとか、マネージャーを頼むとかならともかく、『腕を見込んで』、しかも10点取れと来た。ありえない。いくら小学生相手とはいえ、10点差を確実に引き起こす? ありえない。
「テレスさんはかなりの強打者だったと聞いてます!」
小学三年のガキんちょのくせに、髪の毛を綺麗に二つに分け、聡明そうな顔をした亮太郎くんは、さらにわたしに圧力をかけた。
わたしの笑顔は、凍った。
そりゃ、バイトは見習えたけど、野球ってのは才能があるだろうに。一朝一夕で身に付かねーだろーそりゃー。
とは言いつつも、わたしがその申し出を受け、グローブとバットを片手に、走り込んだのは言うまでもない。自分にやれやれだ。
翌日、わたしは高校の女子ソフトボールの部室を尋ねた。我が校の女子ソフト部は強くもなく、弱くもなく、平々凡々な良くある部だ。
「ごめんくださーい。ごめんくださーい」
えいえい、とノックしても誰も出て来ない上、声を張り上げても誰も出て来ない。こりゃ無駄足、と帰ろうとすると、眼光の鋭い男がこっちを睨み付けてきた。
「今日は休みだぜ、ソフト部。なんか用があんの?」
全く目つきが悪い。しかし、どこか顔つきは幼く、庇護したいっていうか、気がついたら庇護しちゃうようなタイプの男だった。ワルぶってるだけみたいな、そんなの。
ちょっと考えて、わたしはこいつが誰だか理解した。芝辻凌空だ。野球の腕はかなり大したもんだが、ほんの二週間くらい前にある問題を引き起こして、しばらく謹慎していた筈だ。
「ちょっと、野球がやりたくて、ですね」
芝辻凌空は変な顔をした。まあそうだろう。女の子が突然野球をしたくなるのはそうそうあるケースじゃない。男の子に混ざって野球を出来るのは小学生までで、それ以降は普通、マネージャーだ。
「マネージャー? 悪いけど足りてるぜ」
「や、そうじゃなくて。野球がしたいんですわたし」
きっぱり、そう言い放った。
芝辻はうーん、と少し考えて、
「ま、道具と場所は貸してもいいよ。あんたみたいな女の子が突然野球やりたいなんて、面白いからな」
と、あの眼光は緩めずに承知した。
そして、わたしはバッターボックスに立った。ピッチャーはさっきの芝辻凌空。金属ヘルメットが重い。マネージャーが、服が汚れるからとエプロンを貸してくれたので纏ったものの、金属ヘルにエプロン、そしてバットってなんかもう色々と台無し感がただよう。
で、芝辻が投げる。
のろのろのスローボール。ま、女性に対する配慮だろう。当たっても全然へーきとかそういう速度。
だがしかし、わたしは、その瞬間、何年か前に読んだとある大きな弁当を食べる男が主人公の漫画を想像し、つーか乗り移ったかのように、フルスイングした。
柵越え。
ポーンと綺麗に、放物線を描いてボールが柵を越えていった。
それを見て、ベンチでニヤニヤしながら見ていたナインが、全員立ち上がった。守備なんかいらないと思ったので、みんな高見の見物を決めていたのだ。
芝辻に至っては、肩を落とした。そして、次の瞬間、眼光はこれまでに無いほどにきりりと引き締まった。
野球部のナインが、自分の守備位置に着く。何が起こっても良いように。
そして、芝辻の二投目。
全力のストレート。
わたしの振ったバットにかすりもせず、気持ちいい音を立て、後ろのキャッチャーミットに吸い込まれていった。
あれー?
芝辻は自信を取り戻したと見えて、何も言わず、少し微笑む。
そして第三投目。
私に再び、あのデカい弁当を食べる巨漢の魂が乗り移った。振り抜いた途端、カキーンという金属音がグラウンドにこだまし、芝辻は目を見開いた。
ナインは守備動作に移れなかった。
だって、また柵を越えたから。移っても無駄じゃん。
その後も、芝辻との対決は続き、柵を越えるか、もしくは当たらないかの二択だった。三十打席打って打率は、脅威の七割。当たったのは全部柵越え。
芝辻は三十打席を投げ終え、よろよろと地面に崩れ落ちた。
ナインは、微動だにせず、最初に自分の守備位置に着いたところから一歩も動いていない。皆一様に、異様なものを見た、と驚愕の表情を浮かべていた。
「おつかれっしたー」
わたしが、これはイケる! と踏んだためグラウンドを後にした時も、誰一人としてわたしに声をかけてはくれなかった。
そんなこんなで、わたしは小学生相手に、グラウンドでバットを振っているわけである。
既に、今の一打で得点差は10点。逃げ切ればそのまま試合終了である。ま、一回表だけどね。
決めたと同時に、小学生チームの大喝采。
「やっぱあのねーちゃんを引き込めばおれたちの勝ちは見えてたよな」
髪の毛を綺麗に真ん中から分けた少年、亮太郎が、満足げにうなずく。
「ってかあのねーちゃん誰?」
どこか間の抜けた顔をした少年が、鼻水をすすりながら、上着のシャツをはみ出させつつ聞いたが、相手にされない。
「つーか、助っ人なんか頼んでよかったのか?」
「バカ、ダメってルールもないだろ。良いってルールもねーけど」
あっけらかんと正鵠を射た質問をぶつけるスポーツ刈りの少年に、しーっ、と小声を要求する茶髪の少年。
「頼まなきゃ、おれたちグラウンド永遠に取上げられてたんだぜ。アイツらの横暴に比べればおれたちのアイデアは全然ゆるされるって!」
うんうん、とうなづく亮太郎。
「ってかあのねーちゃん誰」
口々に小学生たちは叫び、そして喜びを表す。
納得できないのは、高学年のナインだ。
「卑怯だぞ! なんであんなとんでもない助っ人を!」
「卑怯も何もないわよ。高学年を笠に着て、この子達からグラウンド奪うのは、卑怯じゃないって言うの?」
わたしは、高学年の男の子に正面切って言い放ってやった。
「俺たちは練習で使ってるんだ、あいつらはただの遊びじゃねーか」
「どれだけの違いがあるって言うのよ。曜日とか時間とかで区切ればいいだけの話じゃない。それをムリに押しつけるのは、卑怯で横暴だと思うけど?」
まだ気に入らないと見えて、高学年の男の子は声を張り上げる。
「でも! あいつらがサッカーとかをやると、グラウンドが荒れるんだ。その度に俺たちは、グラウンドを整備する所から始めるんだぜ」
「それはあの子たちにも手伝わせればいいじゃない。自分でやった事は、自分で責任を持つべきよ」
えー、と声をあげる亮太郎。
「えーじゃないわよ。別にアンタ達だけが使うグラウンドじゃないでしょ。使いたい人が困ってるのは事実だもの、助け合うのがふつーでしょ」
「そりゃ、そうだけどさ……」
亮太郎は、グラウンドの整備がこちらに回ってきたのが気に入らないようだ。でも、それは必要なコトなので、お互いにやらせるべきなのだ。
「まー、そうだな。時間と曜日区切って、アイツらにもグラウンド整備手伝わせるってんなら、俺たちに反論はないぜ。悪かったな、亮太郎」
高学年は、しょうがねーなーと言いつつもその条件を呑み、亮太郎に握手を求めた。亮太郎は、一瞬考えると、その手を掴み、握手した。
「ま、それはしょうがないかな」
「これで一件落着ね。さーて、わたしはバイトあるから!」
え、と亮太郎と高学年の男の子は驚いた顔をみせる。
「なによ。納得できる結果でしょ」
「い、いや、それはそうなんだけど、おねーちゃん、ホントはなにものなの?」
「そうそう、それは俺も気になってた。あの強打、マジに只者じゃないぜ」
ふふん、とそれを聞き流してわたしは笑った。
「賀上硝子。それがわたしの名前。ほら、ここにも書いてあるでしょ」
エプロンに刺繍された文字を見せる。そこには、『愛と真実をきっかりお届け! 賀上花店』と書かれている。ま、わたしの家だ。
「……花屋……さん?」
「でも、スーパーでも見たことあるんだよな」
「そういえば、コンビニでも見たことある」
「いや、こないだハンバーガーショップにもいたぞ」
小学生が口々に言ってくる。なるほど、見られてるものだ。
「だからー、わたしはただの学生! それじゃ!」
そのまま全力ダッシュ。盗塁王もかくやとばかりの脚力に、先程の少年たちより頭一つほど大きい集団、打ち取られた小学生ナインは唖然となった。
「で、あのねーちゃん、なんなの?」
「さー?」
サンダル履きに、賀上花店のロゴが刺繍されたエプロン。その裏から見え隠れする紺色のブレザーに、タータンチェックのスカート。銀色のスポークを轢ませながら力強く坂を駆け上がっていく態を、やんやの歓声をあげる小学生ナインを尻目に、打ち取られた小学生ナインはぼうっと見つめていた。
わたしは自転車に飛び乗り、金髪をそよがせ一心にペダルを漕ぐ。小学校からは左手に曲がり、市営体育館前のバス停を右に曲がって、商店街を通り過ぎ、急勾配を切り抜ければ、そこには賀上花店がある。
商店街を抜けようとすると白髪交じりで、青いウィンドブレーカーの胸元に、『苅田自転車店』の白文字がまぶしい、自転車屋の店主が大声を出した。
「お、硝子ちゃん。今日も良い調子じゃねえか。ギアが機嫌良さそうな音立ててやがる」
「ちゅーっす。また整備よろしくー」
「オッケーバッチリ、いつでも来な!」
うむ良い店主。わたしは後ろを振り向き、笑顔でガッツポーズを取った(片手で)。
その途端、猛烈な剛速球がわたしの頭の真後ろに飛んでくるのだった。
瞬間、わたしはスローモーションの世界にいた。道路を挟んだ向こう側では今年73歳になるヨシさんが、まがりネギと豆腐、ショウガ、にんじんにヨーグルトと牛乳を入れた買い物袋を落とした。もっとも、わたしは振り向きざまに訪れるその悪夢のような剛速球をどうにかしなければならない張本人である以上、ヨシさんの驚きなど比較にもならないほどの緊迫した局面に立たされていたのだが。
買い物袋が落下し、地面に着いて豆腐が水と混じり合ったゲル状の新感覚食材へとフュージョンを果たすまで、悲鳴がスローモーションのためにくぐもった野太い声へとメタモルフォーゼし続ける最中でも、果敢にわたしは剛速球を邀え撃った。
当方ニシカシ迎撃ノ準備ナシ。
だが、なせばなる。
ギアの整備は万全、わたしは左に大きく体を傾け、この危機をやり過ごした。そしてすぐさま前方の目標をロックオン。投球フォームはデタラメ、明らかにグラブもボールも握ったことのない、素人のもの。わたしは傾けた銀色の自転車を、この未知の対戦者めがけ、力強く漕ぎ始めた。
そして、眼前でけたたましいブレーキ&ストップ。
「危ないなあ!」
両腕でクロスガード。目すら瞑っていた男は、わたしが止まるや否や開口一番に怒鳴りつけた。
むっ。人に野球ボール投げといて、その態度はないんじゃないのー?
「どっちがよ! あんた誰よ何であんな事したの死にたいの死にたいの死にたいの? イエス・ハイどっち?」
「いきなりそのテンションでまくしたてるのは止めてくれないか! 僕はまだギアが暖まっていないんだ!」
ちらりと見れば、目鼻立ちの整った美少年である。いや、整いすぎのきらいこそある。柳眉を顰め、わたしを嫌悪と憎悪の入り交じった複雑な目で見ているものの、さらりと流れるようなストレートヘアといい、気品がどことなく漂う顔立ちといい、ちょっとしたものだ。ぽっと出の恋愛二等兵なら直様ノックアウトというほどに、彼の顔偏差値は高い。しかし。
「アンタさー、もしかしてアレ? やっぱそんな整った顔してるからちんちん生えてないとかそういうありがちな……」
「失礼な事を言うな! こんな往来で破廉恥な!」
「あ。思い出した。そうそうそう、整形ニクじゃーん、アンタ」
途端、男ははあ、とため息をついた。
「自分の顔をどうしようと、何か問題でもあるのかね? 君だって化粧くらいするだろう?」
やれやれ、と肩を竦めてみせる。
だが、肩を竦めたいのはわたしの方だった。
整形ニク。新倉明太という名前があり、且つそれなりに整った顔立ちにも関わらず、彼は二週間前に起きたある出来事が原因で、学校ヒエラルキーにおいてもかなりの最低域を漂っていたのである。
で、その理由は、美容整形によってその顔を造った、という事を包み隠さず開陳してみせたからである。
メスの入れられた顔であることを意識すれば、女子は勿論のこと、男子も彼をどう扱って良いか判らず、距離を取り始めた。
ま、当然の結果。
で、彼と親しく接する者はなく、彼はアウトローと成り果てた、という寸法だ。
「おあいにくさま。自分のカラダ傷付けてまで得る一瞬の美なんかにわたし、これっぽっちも興味ないからさ」
フン、と鼻で吐き捨てる。
「ならば、君には判らないだろうな。例えこの身を削ってでも、自分を変えたいと思うこの心持ちを」
新倉は芝居っぽいポーズでわざとらしく胸の前でゆっくりと手を組み、ナルシストを演出した。
きゃー気持ち悪い。
「これっぽっちもわかんないわね。わたし、今の自分、好きだから」
あっけらかんと言い放つわたしに、新倉は驚いたような顔を見せた。
「驚いたな。つまり君とボクは、水と油というわけだ。しかし、この傷の代償は高く付くぞ!」
そう言うと、新倉は顔の半分を硝子に見せる。くっきりと付いた赤いボールの跡。
「ま、まさか……」
血の気が引いた。
わたしは先程までの自信に満ちた風貌から一転して、金魚のように口をぱくぱくしてみせた。
「この身を削り、得た美を汚したお前を、ボクは断じて許さない!」
またも芝居ぶった所作で新倉は決める。
これは、ヤバい。ヤバいのです。
整形ニクがアウトローの道を転げ落ちるには、決定的な出来事があるのだ。それは、同じように野球部のボールが教室の窓を突き破り、外を物憂げに見つめていた彼の顔にぶつかった時より始まる。
まだ整形で培った美形だとカミングアウトしていなかった新倉は、それなりに女子の注目の的だった。物静かで、物憂げに暇さえあれば窓の外を見つめ、この世の全てに絶望したとばかりに時折吐く溜息は、どこか彼の過去が重く、その残滓が溜息となって漏れているかに思わせ、退廃趣味から耽美、果ては単なる美形趣味の女子までがこぞって彼の容姿を見ていたものだった。
ま、わたしは見てなかったけどね。忙しいし。
だが、その顔にボールがめり込んだ途端、様相は一変する。ほんの二週間前の話だ。
彼は烈火の如く怒り狂うや否や、野球部へと単身怒鳴り込み、運悪く手を滑らせたピッチャーを何時間にも渡って罵詈雑言の限りを尽くした悪意のフルコースに叩き込んだ上、トドメだったのはその顔を作り上げた費用の全てを弾き出し、その全額を要求したのである。
その相手って言うのが芝辻凌空。眼光鋭いあのピッチャーだ。わたしが打ち取ったあの男だ。
ゼロが六つ連なる金額は、到底高校生の身空では別次元の金額であり、掲示された芝辻は顔面蒼白になったそうな。
事はそこに留まらず、新倉は芝辻の保護者にすらその怒りの矛先を向け、遂にはその金額の半額を耳を揃えて払わせたという事件があったのさ。
人の口に戸は立てられないってワケで、瞬く間に新倉明太の顔は整形によって造られた顔だという事は、
「実はフランケンシュタインのように、死体の肉を継ぎ合わせていたらしい」
とか、
「あの顔は整形の繰り返し過ぎで、少し触っただけで崩れてしまうらしい」
とか、
「実は女」
とか根も葉もない尾鰭が散々元の話の原型を留めない程のレベルにまでついた上で学校中を駆けめぐり、天然物ならいざ知らず、作り物とあっては好奇の目以外の何物も彼に向けられる事はなく、その上彼が顔にこの上ない程の自己愛を注いでいるという事も露見した事も相まって、手のひらを返したように彼は完全に集団の中で孤立した。
その彼の顔に……その問題の彼の顔にだよ? わたしはあろう事か成層圏を突き破る程の猛打をぶち当てたのである。いや、宇宙を切り裂き、太陽にまで至ろうかという程だったかもしれない。いやいや、その程度がどっちでも、一旦火の付いた新倉明太の怒りは、わたしには止められそうもなかった。
危うしわたし。今、わたしの命は、風前の灯火であり砂上の楼閣であり、眼前の業火の如き憤怒の炎によって、あわれ消えゆくという悲しい運命にあった。
ああ、わたしさよなら。