16章
少し前に、新倉はスーツ姿に身を包み、オーディション会場へと足を運んでいた。
猛烈な嵐に襲われ、必死に傘を取られないように差し続ける。
賀上に励まされ、新倉は手応えを感じていた。だから、来られたのだ。
そんな折、新倉は背後から声をかけられた。
「あら。新倉くんじゃない」
絹のような黒髪を揺らした少女、畔柳奈津希である。
「畔柳か。どうしたんだ」
「あのねえ、あなたの格好の方が、どうしたんだって感じだけど?」
畔柳が言うまでもなく、ダブルのスーツをバリッと着こなした新倉は、いつもの学校の印象と違って大人びて見えた。
勿論、年齢が年齢なので、どこか幼さは残っているため、違和感がある。ただし、端整な顔立ちと合わせて見ればなかなかに似合っている。
「そ、そうかな」
「嘘よ。オーディションでしょ、頑張ってね」
「おう、ありがとう」
新倉は微笑んだ。
「そういえば、やっぱり硝子が新倉くんを説得したの?」
数日前、飛び出した新倉を賀上が宥めて連れ戻した一件だ。
「恥ずかしい所を見せちゃったなあ。その通り、賀上に説得されたよ」
「ま、あんたが硝子に手出そうとしてないのは判ってるからいいけどね。硝子も大病を患ってたから本当に踏んだり蹴ったりなのよ」
「大病? 大病ってどういう事だ?」
え、と畔柳は眉を顰めた。
「教えてくれ。僕は彼女に救われたんだ。もし、彼女の助けになるなら、何でも僕はする」
変に行動派の実績があるために、畔柳は渋い顔をしながら、話を始めた。
「あのね、硝子は先天的な病気で、生体肝移植を一〇年以上前にしてるの」
新倉は真摯な目をした。
「叔母さん、だったかな。テレスさんていう人から移植されたの」
新倉は一瞬、眉を顰めた。
「そうね。新倉くんにとっても縁浅からぬ人よね。硝子のお母さんは体が弱くて、とても耐えられそうにはなかったの。だから、テレスさんが代わりに」
「そうだったのか」
深く新倉は頷いた。
「その時、特異的免疫寛容を誘導する薬剤も投与されたの」
新倉は疑問の声を出した。
「何だそれは」
「移植というのは、ドナー、つまり提供者から、レシピエント、移植を受ける人に対して臓器などを提供する事を言うわ。そして、その時には元の個体が違う以上、様々な形で人体は防御反応をするの。風邪という異物を体内に取り込んでも、それをその内殺して体内から排除するでしょ。同じ事をしようとするわけ」
新倉は頷いた。
「ドナーとレシピエントがたとえ同意していようと、個体から切り取られたグラフト、移植片はそれを了承した訳じゃない。免疫抑制剤を投与しない限り、お互いを攻撃し続けるわ。そして、特異的免疫寛容というのは、恒久的にその免疫作用を取り去ってしまう方法ね。普通、移植手術を受けても部位にもよるのだけれど、大体の場合は免疫抑制剤を生涯投与し続ける必要があるの。でも、特異的免疫寛容に成功すれば、生涯免疫抑制剤の投与をする必要性はなくなるわ」
「そんな便利な物があったのか」
「当時は恐らく、正式な認可直後で、臨床例も殆ど無かった筈だけれどね。でも、硝子は一〇年以上過ぎた今になって、拒絶反応に苦しんでる」
「どうして?」
畔柳は首を振った。
「判らないわ。幸い、拒絶反応自体はそこまでひどい物ではないし、免疫抑制剤の投与でスコアも上がっている。でも、GVHDの疑いもあるから、何とも言えないの……」
「なんだ、そのGVHDというのは」
「移植片対宿主病、平たく言うと提供された臓器が、提供先に攻撃をしかける病気よ。つまり、テレスさんの肝臓が、10年以上経ってから硝子に攻撃している」
新倉は一瞬、とても重苦しい表情を浮かべた。
生命に関わる、とても重い病気。それを抱えながら、賀上は新倉を放っておけないと止めたのだ。自分も、変化していく体を持っているからこそ、そこに卑屈になっていた新倉を止めたかったのだ。
「……ありがとな、畔柳」
「え?」
「賀上も戦ってるんだよな。僕も、負けてられないな」
「ええ。頑張ってね。貴方には、私も期待しているわ」
新倉は、賀上の想いを無駄にはしないと心に誓い、走り出した。
そして、その時電話が入る。賀上からだ。時間には余裕がある。出ても問題はないだろう。
「どうした、賀上?」
優しく問いかける。
「あの、ね、ちょっと聞きたい事があるんだけど、良いかな」
震える声、とても弱々しい、いつもの賀上らしくない声だと、新倉は感じた。
「なんだい? いきなり、どうしたんだ?」
只ならぬ物を感じながらも、問いかける。
「あなた、葉石明太なの?」
賀上は、そう言い放った。今も新倉は葉石のつもりだが、籍の関係上、新倉の名字は変わっている。それを、賀上は掘り返したいのか?
「――それを聞いて、どうするつもりだ?」
思わず声が冷たくなる。あまり踏み入れて欲しい過去じゃない。思い出としても重いが、何より新倉にとって辛い過去である事は間違いないからだ。
「真実を、知りたいの」
それでも、賀上は詰め寄った。何かあるのだろう。
「ああ。僕は葉石明太だ。その事実を確認して、君に何の得がある?」
少し、キツイ言い方になってしまった、と新倉は思った。そして、詫びようとした瞬間、電話は切れた。
もう一度電話をかけ直すと、電源が入っていないという。
しまった、と新倉は焦った。胸騒ぎがする。
新倉は咄嗟の判断で、逆向きに走り始めた。




