14章
わたしは全速力を出して走った。そう遠くまで行けるような時間はかかってない。すぐに追いつけるはずだ。
ゆらのお父さんの貸しスタジオを出て、左右を見る。右手は大通り、左には公園がある。わたしは何となく、公園の方へかけ出した。
するとそこには、ベンチに座る新倉の姿があった。
「よ」
悪びれた様子もなく、新倉はわたしの顔を見るなり挨拶をしてきた。
「よ、じゃないっつーの。なんであんた、逃げたの?」
うーん、と新倉は少し唸ると言った。
「俺は、演技の世界で食っていくつもり、ないから」
新倉は、いきなり直球を投げてきた。
「一応、どうして? って聞いていい?」
「もう聞いてるじゃん。僕には資格が無いからだよ。座れよ」
ベンチの上を手で払い除け、新倉は私に手招きをした。
躊躇なく、私は腰掛ける。
「資格? 演技力なら十分にあるじゃない」
わたしはありのままの感想を告げた。あんな演技を見せられれば、誰だってそう思う。でも新倉は首を振り、
「そう思うかい?」
と寂しそうに呟いた。
ま、正面切って褒められて、喜びを顔に出すような人間は日本人にはあまりいない。でもまー、新倉のその表情は照れ隠しだとか謙遜だとか、そういう生易しい反応じゃなく、心底ぐったりと、例えるなら泥のような、何の感情も抱かない表情だった。
「なんでそんなに、うれしくないの?」
それに新倉はうめく様に答えた。
「『演技力』なんて言葉は、僕にとっては罰みたいなものだからだ」
罰、だそうだ。何で罰だ? あれだけ演じられて、あれだけ何もかも分かっていて。天性ではないとあの井芹氏は言っていたが、埋没させるにはあまりにも勿体無いそんな才能なのに。井芹氏はいけ好かない奴かもしれないけれど、せっかくのチャンスなのに。
だからわたしは言ってやった。
「罰? なにそれ。ばっかじゃないの」
「そうでもない。何しろ僕は、僕を亡くしているから」
唐突に新倉は、自分はもういない、と言った。
冗談で言っている様子はない。まるっきり、本気で言っている。だからわたしは逆に恐れて、言葉を返した。
「や、何言ってんの? いるじゃんそこに」
「なあ、賀上、正式な身分証明書って、だいたい何が決め手になる?」
わたしの言葉を途中で真っ二つに切るかのように、新倉はすばやく質問をした。んー、学生証とか、運転免許証とか、パスポートとか?
「顔写真、かな」
「そうそう。顔ってすげー重要なわけ。その人自身が顔ってわけだよ。だって顔ってそうそう変わらないから」
あ。わたしは少し怯えた。新倉は、わたしとかそこの風景とかそんなんじゃなく、もう遥か遠く、誰とも目が合わないような深淵を深く深く見つめていたからだ。
「僕が整形にこだわったのは、何も女の子にちやほやされたかったり、自分が好きだったからじゃないんだ。僕は、僕を取り戻したかったんだ」
あー、やっちゃった。
開けちゃならない、他人の心にじっと閉じていた蓋を、わたしは興味本位でつついちゃったのだ。でも、もうわたしの言葉なんて届かないだろう。きっと。
「顔が、なくなったの?」
「そそ。僕は覚えてないほどの昔らしいけどね。一二年前、ひっどい事故に巻き込まれて、お母さんはその事故で亡くなって、僕は一命こそ取り留めたけど、顔が完全に破壊された。顔って、やっぱり人のシンボルなわけじゃん。ちょっとでもなくなっちゃうと、やっぱ取り返しつかないんだよね」
ドキっとした。
彼の言っている、事故って、もしかして……。
そして、口調こそ軽いけれど、新倉の目はどろっとして、目線はどこを行くでもなくふらふらと泳いでいた。ここじゃないどこかを見てるからだろう。
「何回も手術したんだとさ。何度も何度も。お金もいっぱいかかったみたい。僕は児童劇団に入っていたらしいけれど、そこももちろん追い出されてね。で、僕の家からは、顔が変わる前の写真が一切なくなった」
「……」
なに、それ。整形ニクなんてとても言えないじゃない、そんなひどい出来事を乗り越えた人に。
なんて、ひどい。なんて、残酷なこと。
「唯一の救いは、僕にはその頃の記憶がないこと。すごい昔で物心つく前だからね。でも、その事実を告げられて、僕は何にも信用できなくなった。莫大なお金と腕の良い手術で、僕の顔は一見、何の問題もなく見えた。傷跡だって見当たらないさ。
でも、それでも僕は疑心暗鬼になった。ヒゲ、生えるじゃん。生えてこないところは、きっと植皮がうまくいかなかったのかな、とかさ。ニキビができても、でき方一つで顔が崩れるんじゃないかとヒヤヒヤしたりとかさ。やっぱ皮膚病とかにかかりやすいから、かかったらもう次はないんじゃないか、とかね」
口調こそ明るかったけれど、内容はとても重苦しかった。
否定して欲しかった。そんな重い話、聞きたくない。
「でも、そんな感じしないじゃん」
「感じがしない? ま、そうかもね。他人から見れば。でも僕にとってはささいな違いが、とてつもなく大きな問題に思えて仕方なかったんだ。
他人を見る目が変わった。なんで、あんなに堂々としていられるのか。普通に写真を正面きって撮られて平気な顔をできるのか。プールに何のためらいもなく何で入れるのか。顔を殴られても平気で殴り返せるのか。
僕にはどれもできなかった。だから、集団の輪から外れて、常にその自信に満ちた他人の一挙手一投足をみんな隅から隅まで観察した。どうしてそんなことができるのか、ってね。
答えは見つかった。割と簡単に。恐れがないからだ。失うなんて想像力が働かないからだ。自分を失うなんて可能性、絶対にないって思っているからだ」
わたしはカフカの『変身』が嫌いだ。それは、『変身』は自分を失うから。同じだ、新倉は同じ悩みを抱えていたんだ。
「僕はなんだか、それにとっても腹が立った。だってそうだろう、当たり前を当たり前にこなしてるやつらは、永遠に恐れなんて抱かないからだ。どこかで転んで痛い目を見ない限り、やつらは絶対に同じ気持ちにはならない。
イライラしながら、むしゃくしゃしながら、僕はそれでもずうっと観察した。あらゆる人間のあらゆる動作を全部。来る日も来る日も来る日も。みんなみんなみんな、この目で見てやった。そして、やつらの心の声を、やつらの動きから推測した。ぜーんぶぜんぶ。なにもかも。そしたらだんだん、面白くなってきた。なんだ、僕の手のひらの上じゃん、ってな感じで。動きひとつでわかるんだ、そいつの心の動きが。そいつの感情が。考えが。わかる以上、僕も同じように動きひとつで表現できる。そいつすら思ってないような、そいつ自身を。
だから、僕は俳優になろうと思ったんだ。僕が今までただただ観察してきたこと、それを職業として生かせるんだ。無駄じゃないんだ。天職じゃないか、そう思った」
「わたしも、そう思う」
目をギラギラと光らせながら新倉は語った。その横顔は、怖かった。とっても怖かった。
「そうだろ。でも、正面から叩き潰された。保護者が言うんだ、お前は天性じゃない、作り物だ、って。俳優には二通りあるって言うんだよ。
ひとつは、その存在だけで魅了する俳優。天賦の才とか持っていて、自身の存在だけで役も物語も食ってしまう、そんな俳優。
もうひとつは、役を演じきる俳優。役がどう生きてきたかをその全身で表現しきる、再現の天才。
で、僕は後者で良いと思った。良いと思ったんだ。でも保護者は言うんだ。
『努力の跡が見えるような奴を、誰がかなわないなんて思う?』って」
わたしは、ちょっと意味がわからなかった。努力はしていた方がいいじゃん、って。
「なんで?」
「生まれ持ったものは、強いんだよ。なにしろ、手に入れようと思って手に入るものじゃない。いい顔をしていても、それを整形で勝ち得れば、『誰でもできること』になってしまう。努力も同じさ。努力を積み重ねた結果は、確かに努力をしない奴からすればすごいことだけど、『努力さえすればその域に辿り着ける』って思わせるんだ。
努力の跡が見えるような奴は、憧れの対象には永久にならないって、つっぱねられたのさ。それに何より、整形は努力ですらない。何にも失わずに勝ち得る最低の負い目だろう、って。
お金さえ積めば誰でも可能な、最低のアドバンテージだろうって!」
不幸な事故に巻き込まれて、それが原因で新倉は人間を見て、人間を知って、人間を表現しようとして、そして、破れた。
だから、必死に自分で働いて、その顔を『元に』戻そうとしていたんだ。自分を取り戻すために。既にもう取り戻せない、自分を取り戻すために。
誰でも手に入るのが、整形で得た顔だなんて、だからダメだなんて、わたしはすぐには否定できなかった。
「じゃあ、それで諦められるの? 新倉は?」
「ふつーに考えろよ、ふつーに。ドラマでも舞台でも、歌でもいい。憧れて、どんな凄い人なんだろうって思ってファンになってから、『実は整形なんです』なんて言われたら、ファンはどう思う? 作り物なんだよ、所詮、根っこが作り物だから、何をやってもまがい物にしかならねーんだよ! 僕は、僕を永遠に失ったまんまなんだよ!」
かける言葉がやっぱり、見つからなかった。でも、それでも、新倉は本心では俳優に憧れてるはずだ。
「整形だからって、差別しないよ。それで笑ったりなんか、しないよ」
「それは賀上が僕の不幸な事故のいきさつを信じたからだ。世間はそんな言い訳なんて聞かない! 理由なんて聞かない! その人間がどういう生き方をしてきたかなんて、全く興味ないんだ! その人のその瞬間が天性からカッコイイ、かなわない、だから憧れるんだ! そこに余計な茶々が入ってお涙頂戴なんて、笑い話にもならないんだよ! ファン一人一人全員に、その重い過去を語るのかよ! 重いんだよ! 重くて、やってらんねーんだよ!」
わたしは、彼を助けたいと思った。苦しんで、もがいている彼を助けたいと思った。
もし、わたしの知っている、あの崩落事故だとすれば、尚のことだ。心臓が掻き毟らされそうな、そんな痛みがわたしをおそった。慚愧の念、とでも言うのだろうか。
新倉の姿に、ある朝目覚めると虫になっていたザムザの姿が重なった。あんまりだ。あまりに、残酷だ、そんなの。
「それでも、俳優になろうよ!」
「は? 何言ってるんだ? これだけ言っても、まだわからないのかよ!」
「わたしはね、思うんだよ。もうとっくに、新倉くんは自分を取り戻しているって」
新倉は、わたしの肩をぐっと掴んだ。
「賀上、お前に──」
「わかるよ! 不幸合戦じゃないけど、わたしだってこんなに弱い体だから、たまにこんな体なんか無くなってしまえって、思うよ!」
新倉は肩からすっと手を離した。
「でも、わたしは今の自分が好きだから、一生懸命、力の限りがんばれる、そんなわたしが、好きだからがんばれる。新倉くんが演技に夢中になれる原動力は、自分を取り戻すだけじゃないと思う。演技が出来る自分が、本当の自分だと感じたからじゃない?」
新倉は驚いたような表情を見せた。
「新倉くんの過去の出来事は確かに不幸だと思うよ。でも、新倉くんは心ない中傷をするファンのために演じるんじゃない。自分を表現するため、そして、その表現した物を理解してくれる人のために演じるんだよね? そんな、整形ならわたしでも出来るから、整形をしてる業界の人間は許せない、なんて薄っぺらな人間のために、新倉くんが諦める必要なんて、ないよ!」
でも、新倉くんが整形ニクとバカにされていた事を考えると、確かに風当たりは非常に大きいのかもしれない。新倉くんがショックを受けて、人間同士の輪に入れず、人間観察に撤さざるを得ないくらい、インパクトは大きかったかもしれない。
でも、それだけの理由で諦めるなんて!
「悪かったよ。取り乱したりして。あのオッサンの言うことがあまりにその通りだったんで、僕はどうしていいか判らなかったんだ。
僕は根っこのプライドがへし折れている。だから、演技に撤する事が出来る。自分に才能があるとか、羨望を集めようだなんて全く考えてもいない。それなら、まだいないファンを気にするような真似は全く無意味だよな」
「そうだよ! それに、何があってもわたしは、新倉くん、君のファンだから!」
新倉はきょとん、とした顔をした。そして、苦笑した。
「やれやれ、ありがたいな。お世辞なんて、いいのに」
「お世辞なんてわたし言わないけど」
さらに新倉は苦笑した。
「決めたよ賀上。僕は、あのオッサンの言うとおり、劇団のオーディションを受けてみるよ。ありがとな、賀上」
すっと新倉は手を差し出した。
「いいよ。困ったときはお互い様じゃない」
わたしは新倉と握手した。手がじんわり暖かかった。
その後、新倉と一緒に稽古場に戻り、わたし達は今日も稽古に明け暮れた。




