12章
「で、話ってなんだよ、阿川、畔柳」
ファミリーレストランの一席。流石に深夜と見えて客足はまばらで、空席が目立つ。
阿川と畔柳の二人は、待っている間に広げていた勉強道具と女性用週刊誌を仕舞い込み、席に着くなり新倉はドリンクバーだけを注文した後、ゆっくりと口を開いた。
「単刀直入に言うわ。あなた、何故硝子に近づいたの?」
それに対する畔柳奈津希の返答は、刃のように鋭かった。新倉はしばし脳を巡らすが、彼の頭にはそれに該当する返答がなかった。簡単な事だ、彼は賀上硝子に近づくために、演劇部に足を踏み入れた訳ではないからだ。
「何、言ってるんだよ。僕は別に、賀上に近づこうと思って演劇部に入った訳じゃない」
いつも怜悧で、クールに構える畔柳は、そのこぼれそうに大きな瞳で半ば睨み付けるように、警戒心を露わにしながら新倉を見た。疑うような目だ。
一方、猫のように気さくで、男女の隔てなく表情をころころと変え、いつも明るい印象の強い阿川も、その目は真剣そのもので、新倉を正面からじっと見据える。いつもの明るさは微塵も感じられない。
新倉は、なんだか、糾弾されているようなそんな息苦しさを覚えた。
「その言葉、本当っスか?」
新倉の言葉に阿川は聞き返す。語尾にどこか怒りを交えたような、そんな印象。昼間からの稽古中には、そこまでの刺々しさは無かった。
(僕は何かしてしまったって言うのか……?)
過去の風景を思い返す。思い当たらない。そもそも、ほとんど彼は賀上の指導ばかりをしていた。二、三言は阿川や畔柳、冬室と言葉を交わした気もしたが、それ以外は殆ど賀上にかかりきりだった。それにしても、やましい所があった訳ではなく、純粋に劇の水準を上げようと努力していただけに過ぎない。それは、阿川や畔柳、冬室も当然理解しているだろう、と新倉は考えていた。
しかし、だからこそ、彼女たちがこれだけ怒りをにじませながら、新倉を呼び出す理由が分からないのだ。
「本当だ。だいたい、僕は志岐先生に……」
「強引に引き込まれたのよね。爽音があなたにとてもお世話になった事も知ってるわ」
畔柳は強引に新倉の言葉を切った。言い訳をするな、という事だろう。
新倉は気まずくなり、次の言葉を告げづらくなったが、意外な声が代わりに返答してくれた。
「え、爽音っちが何でああなったか、奈津希ちゃん知ってるんスか?」
阿川だった。しかも妙なことを口走っている。新倉は、演劇部の連中はみな周知の事実だろうと思っていたが、阿川は知らなかったようだ。
「新倉くん、もちろん理由は知っているわよね」
「ま、大体は」
実際のところ大体はどころではないが、ネタの出所は志岐先生なのだから、正確な情報ではないかもしれない。だがまあ、畔柳病院の娘である畔柳が知っている情報ならば正確だろう。そんな意味で、大体は、である。
「爽音に直接聞けばいいじゃない、とは思うけれど、まあいいわ。爽音は、とある理由で大金が必要だった。で、お人よしの新倉くんが、間接的に爽音にその費用を返させたのよ」
「ふむふむ」
「でも、いざ蓋を開けてみると、実はそのとある理由は、爽音の想像だけの話だったの。実際には、費用のかかるような事は何もなかった。それなのに、爽音に費用を返す事で新倉君がいじめにあってるのを見て、爽音はあまりにも申し訳ない気分になって、ああなったんだってさ」
畔柳の弁はオブラートにくるみすぎだろう、と新倉は思った。
何のことはない、松見は妊娠したと思っていて悩んでいたが、畔柳病院に駆け込んだ結果は、想像妊娠として診断された、それだけのことである。
いや、本人にしてみれば天地が逆転するほどのことだろうが、その痛みは残念ながら新倉には感じられない以上、他人事以外の何者でもない。
「ぜーんぜんわかんないっスよ。なんスか費用って」
「……心の機微を読み取りなさいよ」
阿川の茶々で、場は少し暖かさを取り戻した。新倉は阿川に少し感謝する。
「で、事の真相を話して、私たちを煙に巻こうって算段は消えたわけだけど、本当の理由を教えてくれるかしら、新倉くん」
しかし、氷のような畔柳の視線は、一切変化していなかった。つまり、真相を阿川に話すことが目的ではなかった、というわけだ。新倉は、畔柳が切れる女だという事を今更ながらに思い知らされた。
とはいえ、これ以上彼から何かを言うことは何もないのである。
「だから何度も言うように……」
「そう、そうやって逃げるんだ。あの名優、葉石優の息子の、新倉くんは」
新倉は、心臓が高鳴る音が、全身に響くのを感じていた。
「なぜ、その事を……」
新倉の声は震えていた。顔も心なしか、青ざめていた。
「新倉くん、君がその事を必死に隠していたのは知っているわ。でも、母方の旧姓をわざわざ名乗っても、少し調べれば判る事だわ」
「だから、ね、新倉くんが硝子に脅迫をしようなんて、思わないほうが良いっスよ」
「……冗談じゃ、ない」
新倉はぼそりとつぶやいた。
「え?」
「親父の事を持ち出すなんて、なんで僕がやるわけあるんだ!」
新倉は激しい剣幕で怒鳴った。物静かな彼からすれば、あり得ないほどの大声で。呆気にとられたのは阿川と畔柳の方だった。そこまで彼が怒るとは思っていなかったのだ。
「ご、ごめんなさい。悪かったわ」
「いったい、どの件について言っているのかわからないが、親父について何かこれ以上言うなら、僕は容赦しないぞ」
どちらかというと、畔柳の方が狼狽していた。おそらく、彼女から阿川も誘ったのだろう。逆に阿川は、深く深く頭を下げながら、言った。
「ごめん。新倉くん。やっぱ、そんな事思ってなかった、よね」
「ああ……」
新倉は、くぐもったような声を返した。
「怒鳴って、悪かったな。でも僕にとって、親父の思い出は大切なんだ。そして、賀上にそれを理由に近づこうなんて、思ってない」
実のところ、阿川と畔柳が新倉を調べたのにも理由がある。それは、賀上に野球ボールをぶつけられても、それをあっさりと許したあの一件だ。後になって新倉が爽音のために一肌脱いだと判ったが、そこに至るまでに調べた結果が、彼女たちに疑心暗鬼の種をまくことになる。
新倉明太が、俳優、葉石優の息子であるという事実。それだけで彼女たちにとっては、大事な硝子に害をなすと判断されたのだ。
「ゆらが、言ってたのよ。毎週、欠かさず来る子がいるって。だから、余計勘ぐっちゃったの。でも、なら大丈夫ね。悪かったわ。でも、硝子を私たち、放っておけないの。あの子、明らかに空回りしてる」
畔柳はどこまでも冷静だったが、新倉はその言葉にどこか引っかかりを覚えた。
「どういうことだ? 賀上が空回りって」
「まあ、新倉くんは付き合い短いから知らないかもしれないっスけど、あの子、バイトを4つ掛け持ちしてるんスよ」
新倉はその事実に呆気に取られた。飯を食べているのか判らないほどの細身で、日本人らしからぬ金の髪をそよがせた彼女は、遠目に見れば消えてしまいそうにすら見える。新倉があのボールをぶつけられた日に、彼女を必死の思いで病院に運んだのも、彼女が壊れ物のように繊細に見えたからだ。全体的に色素が薄く、折れそうな腰を担いだときも、信じられないほどに軽かった。
そのまま、ずうっと眠り続けた彼女は、そのまま目を覚まさないかのように、新倉は思った。儚げで、すうっと透明になってしまいそうな。そんな、彼女。強気な事を言って他人をぐいぐい引っ張っていくが、実際のところあれほどに体が弱そうに思う人間も見たことがない。
それが4つもバイトを掛け持ちとは。
「そうなのか?」
「そう。その上にあんな風に倒れるでしょ。私たちは、とても硝子を心配してる」
それが、新倉をここに連れてきた理由だったのだろう。新倉は、彼女たち二人を怒る気にはならなかった。
「しかし、何故、そうまでして賀上はバイトに?」
新倉の疑問に、二人の目線は泳いだ。




