セイカツ
帰宅すると「おかえり」と女が出迎えたので僕は少し後ずさった。ただいま、と口ごもりながら応えると女は満面の笑みを浮かべる。同居生活は二週目に突入しようとしていたが長いひとり暮らしに慣れた僕はなかなか順応することができなかった。
「お疲れさま。」
女は僕の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して勝手知ったるようすでグラスに注いだそれを寄越してくる。フランスの山奥が採水地のそれは硬水で、僕の舌にはまったく合わないのだがなぜだか僕はそれを言い出すことができなかった。ここは僕の家で、目の前の女は居候だというのに。
にこにこと笑っている女は僕の恋人でもなんでもない。したがってその笑顔で僕の心が癒されることもさしてないのだが、この顔は彼女の基本状態なのだ。いつでも、笑みを浮かべている。人好きのする笑みを。
「真由美、今日は何をしてたんだ。」
僕のいない間この家で居候がどう過ごしているのか確認するために、僕は恋人に向けるような質問を女に投げた。
真由美は僕の大学時代のサークルの同期だ。卒業を目前にしてフランス留学を決めた気ままな女。それから三年、連絡を取ったことは一度もない。それが二週間前、突然部屋の戸口に現れたのだから僕はたまげた。たまげたという日本語を自分が思い浮かべることになったことにもたまげた。
女は大学時代と少しも変わらない笑みを浮かべて、「しばらく住まわせてほしいんだけど。」と言い放ったのだ。僕が不精のために大学を出てもキャンパスの側のアパートから越していなかったことをほかの同期から聞いたらしい。
それから二週間、真由美は開口一番言い放った言葉の通り、僕の家に住み着いている。信じてもらえないかもしれないが僕と真由美は恋人なんかではけしてないし、いわゆる男女の関係に陥ったことも一度としてない。じゃあ真由美が僕を愛しているかといえば、想いびとのアパートにおしかけて住み着く女がこの世にいるか、というのが答えだろう。いくらこの女に常識が通用しないとしても。それに真由美の態度は大学のときから少しも変わらず、天真爛漫に限りなく近い傍若無人のそれだ。いまも僕に何の断りもなく冷蔵庫によくわからないおフランス製の食材が詰め込まれている。
「べつに、なにも。テレビを観てご飯を作って食べただけ。」
冷蔵庫に残ってるけど食べる、と問う真由美に首を振るだけで答えて差し出されたミネラルウォーターをいっきに飲む。やっぱりおいしくない。僕が顔を顰めたのを彼女は疲れによるものと取ったらしかった。
やっぱり仕事は大変ねえ、と彼女は笑う。フランスからいつ戻ったのか、最後に会ってから何をしていたのか、この女は少しも語ろうとしない。僕のほうも僕のほうで問おうとしないのだからお互いさまかもしれないが、なんとなく、こういうことは本人の語る語らないにまかせたほうがいいような気がするのだ。口ぶりからして、とりあえずいま仕事に就いていないことはたしからしい。たぶんいままでも。高そうな食材をどこからか調達してくるあたり資金は潤沢らしいけれど、いったいそれがどこから出ているのやら見当もつかない。たしか出身は北のほうだったと思うのだけれど親御さんにはどう伝えているのだろう。
「おいしいのに。」
不満そうな顔で真由美がぽつりとぼやくので、気が付けば「じゃあ一口だけ。」という言葉が口から洩れていた。まったく意思に反した行動ばかりこの頃は取らされているような気がする。まあ結局は僕の自己責任が多分を占めるのだけれど。真由美のことにしてもどう暮らすのも彼女の自由だし、僕は恋人でもなければ彼女もおとななのだから放っておいても大丈夫だろう。気まぐれというか、いくら大事なこともその場その場で決断してしまうような女だからあと数日もすればふらりと出てゆくかもしれないし、ひょっとすると一年くらい居座るかもしれない。なんだかんだ大学の同期といまになって同居するというのは新鮮なものだった。仕事から帰って出迎える人間がいるというのも悪くはない。少しばかり光熱費が増えたところでまかなえるだけの給料は貰っているし、下手に突っついて藪蛇になっても困るし、とりあえずはこのままにしておこうという結論が出てしまうのだった。
いつのまに操作を覚えたのか、冷蔵庫から出した皿をレンジにかけて真由美が運んでくる。湯気を立てているのは僕が見たこともない料理だった。この女ははるばるフランスまで行って料理を覚えてきたのだろうか。僕の知る限りでは料理にそこまで興味のある女ではなかったが、真由美の性格からして唐突に思い立って、っというのはありえない話ではなかった。皿の上に載っているのはどう見てもフォークで食べるのが相応しいものだったが、僕は差し出された箸を黙って受け取って料理をつまむ。やたらと手間のかかりそうな味だった。
「おいしい。」
たぶんこの料理はこれで成功しているんだろう。慣れない味が舌に広がるのを感じながら、半ば反射的に褒め言葉が口をついて出る。真由美は笑いじわを深くして「でしょ。」と胸を張った。手作りの料理なんて食べるのはいつぶりだろう。僕自身料理がまったくできないというわけではないけれど、仕事をしているとそうそう自炊しようなんて気にはなれない。このご時世どんな時間でも味の良し悪しを気にしなければ好きなものを食べることができるし、自炊するよりそのほうが安価だったりもする。スーパーはいつのまにか閉店間際に駆け込んで割引された惣菜を物色する場所になっていた。料理好きだった彼女とも、別れて二年が経つ。
久しぶりに食べる手作りの料理はそれがたとえはじめて食べる味でもなんとなくなつかしいような感じがした。舌にじんわりと染み渡ってゆくのがいい。自分がいままでいかに添加物にまみれた食生活を送っていたのか実感させられた。一口、と言ったのにいつのまにか二口目三口目を口に運んでしまう。
「おいしい。」
今度口から出たのは正直な感想だった。案外、手作りの味に飢えていたのかもしれない。そんな僕に真由美はまた「でしょう。」と応える。僕は咀嚼しながら何度も頷いた。夜中に大学の同期の女と向かい合って彼女の作った料理を食べているなんて凄く奇妙な事態だ。少なくともこれまでの僕は想像したことがない。
真由美は相変わらずにこにことして、
「ヘンっちゃヘンだけど、人生って結局そんなもんよねえ。」
と言った。そんなもんなのかもしれないなあ、と僕も思う。たとえば明日僕が死ぬ可能性だってゼロではないのだから、たまにはこんなことがあっても悪くはない。僕は飲み干した水のグラスを真由美に差し出して、「おかわり。」と言った。それに彼女は仕方ないなあと笑って立ち上がる。僕はまずい水が差し出されるのを彼女の背中を目で追って待った。
まるで白昼夢みたいな現実。でもいまは夜で、これは夢じゃない。頬をつねれば馬鹿ねえと笑う真由美がいる。すなわち人生なのだ、と僕の知らない僕が呟いた。