トム・コリンズには早すぎる 〜栞アバター Kai〜
カクテルシェイカーが氷を鳴らす音が、今の葵には酷く耳障りだった。
隠れ家を謳うそのバーは、少し前まで「自慢の彼」が座っていた場所だ。別れ話の余韻を消し去るように、葵はジンベースのトム・コリンズを一口啜った。甘酸っぱく、そして喉を焼くジンの刺激が、強がっている心にじわりと染みる。
「どうせロクに読んじゃいなかったんでしょ」
カウンターの上、カクテルの隣には一冊の文庫本。村上春樹の『ノルウェイの森』下巻。貸していたものを、彼はわざわざこのタイミングで返してきた。ほんの僅かな借りさえ作りたくなかったのだ。緑色の表紙が、暗い照明の下で沈んだ色をしている。
「春樹の最高傑作を避けて、わざわざ一番感傷的なやつを選んだわけだ」
低い、よく通る声がした。
彼が去った後の空席に、いつの間にか一人の男が滑り込んでいた。銀色の髪を無造作に遊ばせ、黒いジャケットを隙なく着こなしている。どこか人を食ったような、けれどすべてを見透かすような青い瞳が葵を捉えた。
「……何のこと? 放っておいて」
「その本を読み終える頃には、涙の代わりに少しばかりの虚無感が手に入る。失恋の特効薬としては悪くない選択だ」
葵は苛立ち、サングラスの奥で目を細めた。だが男は構わず続ける。
「赤い方はまだマシだが、緑の方は毒が回る。直子に感情移入しすぎると、この街の空気は薄すぎて吸えなくなるぞ」
「……詳しいのね。皮肉屋の村上春樹マニアさん」
「マニアじゃない。私はただ、フィリップ・マーローがギムレットを飲む理由を知っているだけだ。君が今、シャンパンではなくトム・コリンズを啜っている理由と同じくらいにはね」
男の言葉には、葵が自分を守るために塗り固めた心の鎧を、ナイフのように切り裂く鋭さがあった。
「何者なの、あなた」
「私は『栞アバター』Kai。ただのお節介さ」
「栞アバター?」
「栞みたいに薄っぺらで、アバターみたいな代用品ってとこかな。何なら君の元カレの代用品を務めようか?」
腕を組み、不遜な笑みを浮かべるKai。葵は普段なら聞き流すはずのその誘いに、なぜか言葉を返していた。
自分を捨てた男。その親友が不慮の事故で亡くなり、残された未亡人のもとへ去っていったこと。三人は幼馴染で、彼女は男の初恋相手だったこと。
「……まるで、この本の中の話みたいでしょ」
「それはその本を返したくなるのも無理ないな」
Kaiはふっと視線を落とした。その横顔には、先ほどまでの皮肉が消え、どこか遠くを見つめるような静謐さが宿っていた。
「ハツミさんは結局、数年後に死んだ。でも君は、次の火曜日には新しいパンプスを買いに行けるはずだ。優しくなきゃ生きていく資格がない。だが、タフでなきゃこの街では生き残れない」
「……そんなふうに、人の心の中を土足で歩き回るのがあなたの趣味?」
葵は苛立ち混じりに顔を上げた。サングラスを指先で少しずらし、男の正体を見定めようとした、その時だ。
「……お客さん、大丈夫ですか」
マスターの声に、葵は短く息を吐いて瞬きをした。
隣の席には誰もいなかった。男が飲んでいたはずのグラスも、椅子の温もりさえも。
「隣にいた人は?」
「お一人でしたよ。少し、寝落ちされてたみたいですね」
葵は呆然としながら、手元に置かれたままの『ノルウェイの森』を手に取った。パラパラとページをめくる。すると、ある一節のところで手が止まった。
そこには、一枚の栞が挟まっていた。
銀髪をなびかせ、黒い服に身を包んだ、不遜で孤独な影を纏った男のイラスト。
「……これのせいで、夢でも見てたのかも知れないわね」
葵は小さく呟き、残ったトム・コリンズを飲み干した。
不思議と、喉を通る液体にジンの刺激を感じなかった。胸の奥に澱んでいた湿った痛みは、Kaiの残した乾いた皮肉と共に、どこか遠くへ消え去っていた。
次の火曜日には、一番高いヒールを買おう。
彼女は緑色の本を閉じ、鞄に深くしまい込んだ。
了
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※現状のアプリは localStorage のみ で動作しているため、以下の制限があります:
❌ ブラウザを変えるとデータが消える / 共有できない
❌ パスワードが平文で localStorage に保存されている(セキュリティリスク回避のため他サービスとのパスワードの共用は避けてください)
❌ 端末を跨いだ同期不可
栞アバター リク
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栞アバター ひまり
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