Episode : 5 (Boron) / パンから武器を
偶然でもない、神話でもない。
自然の摂理は必ず同じようにはたらく。
摂理をたどれば科学は必ず——
人類の"今"を再構築する。
診療所の灯りは、夜の気配とともに静まり返っていた。
だがユズキの目だけは、鋭く動いている。
寝台を一つずつ巡り、患者の喉を観察していく。
(ユズキ)「口を開けて。……舌を下げる」
木の匙で静かに押さえる。
咽頭後壁。
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<解説>
口腔内で細菌やウイルスなどの病原体が侵入した際に対処にあたる器官には、舌の奥にある球形の扁桃(口の上部などにもある)や喉の奥にある咽頭(咽頭後壁)などである。
一般的には、インフルエンザウイルスやコロナウイルスなど、ウイルスが病原体の場合、咽頭後壁が赤くはれる炎症(急性咽頭炎)が見られ、特にインフルエンザウイルスではインフルエンザ濾胞とよばれるイクラのような炎症がみられ、逆に肺炎レンサ球菌や黄色ブドウ球菌など、細菌が病原体の場合、扁桃に白い膿(白苔)が見えることが多い(扁桃炎)ことが知られている。ただし、マイコプラズマやクラミジア・ニューモエのように、細菌でも咽頭炎のみを引き起こすものもある。
このように、口腔内の観察や、熱のでかた、咳の種類などから、ある程度ウイルス性か細菌性かを区別することができる。
感染症がウイルス性か細菌性かでは、治療に大きな差がある。大きいものでは以下のようなものがある。
①インフルエンザ脳症について
ウイルス性の感染症で特にインフルエンザでは体内でサリチル酸に分解し作用する解熱剤のアセチルサリチル酸やサリシン(柳エキス)を使った解熱をすることは望ましくなく、脳に影響を及ぼす恐れがある。
②抗生物質の使用について
細菌性の感染症では、ペニシリンなど、中世でも現実的に製造できる抗生物質を用いて、細菌に対処することができる。
※アスピリン、バファリンなどの薬をインフルエンザ罹患時に使用できないのは現代でも言われている。
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(ユズキ)「……白苔か、濾胞か」
もしウイルス性なら、決定打はない。
解熱はできるが、原因は止められない。
腫れ上がった扁桃。
そこに付着する、白い膿。
(ユズキ)「……細菌性だ」
科学の積み重ねが、この瞬間を支えている。
サリシンによる解熱反応。
体温の推移。
脈拍の改善。
人体の生理が、この世界でも同じ法則に従っている証明。
ならば——
(ユズキ)「抗菌物質が効く可能性が高い」
(エリン)「抗菌……?」
馬之助が腕を組む。
(馬之助)「またとんでもないこと言い出したな」
だがユズキはもう決めていた。
準備は早い方がいい。
偶然ではなく、再現可能な治療へ。
フックが顕微鏡ではじめて細菌を「観察」する。
コッホは細菌の病原性を発見。
ジェンナーやパスツールが感染症を根本から阻止する「ワクチン」を発明。
北里柴三郎らはこれに続き「血清療法」などを発明。
フレミングが細菌に立ち向かう「抗生物質」を発見。
人類は感染症を一歩一歩、でも着実に乗り越え、立ち向かえるようになった。
彼の頭に浮かぶのは、青緑のカビ。
かつて人類を救った分子。
(ユズキ)「ペニシリンを作る」
(エリン)「……作る?」
抗生物質、それは人類が細菌に立ち向う武器である。
そしてもう一つ、肉眼では見えない敵を、見る必要がある。
観察して実証することが何より科学的だ。
(ユズキ)「顕微鏡も作るぞ」
静かな決意が、診療所に満ちる。
柳の苦い香りがまだ残る室内で、
三人は新たな準備を始めた。
布、硝子片、磨いた金属。
培養のための器。
湿り気を保てる場所。
偶然でもない、神話でもない。
自然の摂理は必ず同じようにはたらく。
摂理をたどれば科学は必ず——
人類の"未来"を再構築する。
理論と観察に基づく医療。
夜は深まりつつあったが、三人の動きは止まらなかった。
ユズキはエリンへ向き直った。
(ユズキ)「この辺りで、青いカビを見たことは?」
(エリン)「青い……カビ?」
彼女は少し考え、棚の奥を探る。
乾燥させたパンの欠片を取り出した。
(エリン)「湿気たパンに、青緑色の粉のようなものが生えることがあるわ」
ユズキの目がわずかに細まる。
(ユズキ)「それだ。アオカビだ」
エリンは眉をひそめる。
(エリン)「あれは腐敗よ」
(ユズキ)「いや、“武器”になる」
彼は振り返る。
(ユズキ)「馬之助」
(馬之助)「嫌な予感しかしない」
(ユズキ)「お前は毎日パンを食べているな」
(馬之助)「食うが?」
(ユズキ)「カビの扱いに慣れているのはお前だ」
馬之助は顔をしかめる。
(馬之助)「褒められてる気がしねえ」
湿らせたパンを陶器皿に置く。
通気は保つが、乾燥させすぎない。
直射日光は避け、温かい場所へ。
他のカビが混ざらぬよう、できるだけ清潔に。
ぶつぶつ言いながらも、彼は真剣だ。
命がかかっていると理解している。
馬之助が準備に取りかかるのを確認し、ユズキはエリンへ向き直った。
(ユズキ)「精密な硝子加工ができる職人は?」
(エリン)「いるわ。川向こうの工房に」
一瞬ためらい、
(エリン)「凄腕の職人よ。ヒューストン」
その名を聞いた瞬間、ユズキの記憶がかすかに揺れる。
ヒューストン。
かつての世界で何度も聞いた名。
——“Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.”
宇宙と通信する象徴の言葉。
ユズキは小さく笑った。
人類の科学は、月にまで達していた。
それは、忘れ去られてはいるが、偉大な飛躍だ。
ふとユズキはそれを思い返した。
参考文献
①アスピリンのインフルエンザでの使用禁忌について
https://www.hospital.arao.kumamoto.jp/health/health_talk/health_talk02.html
https://qa.lion.co.jp/faq/show/561?category_id=162&site_domain=default
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17147458/
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30252357/
②NASA - アポロ11号
https://www.nasa.gov/history/55-years-ago-apollo-11s-one-small-step-one-giant-leap/
https://www.archives.gov/files/social-media/transcripts/transcript-eagle-has-landed-1969-45017.pdf
https://www.nasa.gov/mission/apollo-11/




