Episode : 4 (Beryllium) / 肺炎
酒場を出たころには、空はすでに橙に染まり始めていた。
ユズキは食器の縁についた油膜を観察しながら、ぽつりと言った。
(ユズキ)「加熱はしているが、殺菌という概念は薄いな」
(馬之助)「食後に言うなそれ」
外では、また咳が響いた。
二人は顔を見合わせる。
(馬之助)「行くんだよな?」
(ユズキ)「何もしなくとも感染は広がる、手遅れになる前に...」
(馬之助)「そうか...」
通りを歩き、近くの住民に声をかける。
(ユズキ)「病人が運ばれている場所は?」
(馬之助)「いきなり核心いくな……」
中年の男が怪訝な顔をしたが、南区画の診療所を指さした。
(???)「川沿いだ。若い医者が診ている」
(???)「エリン先生のところだ」
ついでに、とユズキは言う。
(ユズキ)「布を分けてほしい。できれば目の細かいものを」
(馬之助)「あと酒。強いやつ」
男は眉をひそめながらも、古い麻布と蒸留酒の入った瓶を渡してきた。
(???)「変わった連中だな……」
(ユズキ)「蒸留酒か。これなら問題ない」
二人は南へ向かう。
石畳はひび割れ、側溝は浅い。
川が近づくにつれ、むせるような咳が聞こえ始めた。
診療所は石造りの小さな建物だった。
窓は開け放たれている。
汗と薬草と、血の匂い。
淡い茶色の髪を後ろで束ね、袖をまくり、患者の額に手を当てる。
無駄のない動き、迷いのない判断。
担架の横に膝をつき、呼吸を確認する。
別の患者の喉を見て、指示を出す。
(???)「水を。いや、ぬるま湯。咳が強い、横にして」
その姿に、ユズキは小さく呟いた。
(ユズキ)「いつの時代も、医者は最も尊い職業だ」
科学の最前線で命と直接向き合う職。
その姿は、時代も世界も越えて変わらない。
(馬之助)「お前が素直に褒めるの珍しいな」
馬之助が声をかける頃にはユズキはすでに行動していた。
もらった布を折りたたみ、蒸留酒を少量染み込ませる。
それを口元に当てる。
(ユズキ)「馬之助、感染のリスクがある、下がっててくれ」
そして、静かに診療所の中心へ歩み出る。
女性医師がこちらを見る。
一瞬だけ、警戒の色。
(ユズキ)「患者の症状の傾向は?いつから流行ってる?」
診療所の空気が、わずかに張り詰めた。
(エリン)「ここは治療の場です。見学なら——」
張りつめた空気の中、若い女性医師がこちらを睨む。
(ユズキ)「邪魔はしません。知識はあります」
ユズキの視線が診療所全体を走る。
次の瞬間、彼の目が止まった。
呼吸数、皮膚色、意識レベル、発汗、咳の深さ。
奥の簡易寝台には、痩せた少年がいた。
唇が紫色を帯びている。四肢に触れると、明らかな冷感。
ヒュッ、ヒュッ、と空気を求める音。
あきらかなチアノーゼと喘鳴の兆候。
(ユズキ)「肺に問題がある。おそらく肺炎」
エリンの目がわずかに見開かれる。
(エリン)「……なぜ分かるの?」
(ユズキ)「末梢の冷感と呼吸音」
彼女は顔を上げた。
警戒は、わずかに興味へと変わっている。
ユズキは即断した。
(ユズキ)「清潔な水に塩と糖。体液に近づける。脱水を防ぐ」
(ユズキ)「補水液を作るぞ」
(エリン)「水ならある。でも糖は貴重よ」
ユズキは一瞬悩む。
(ユズキ)「果物の汁を絞って少し混ぜよう、糖の代わりになる」
(ユズキ)「馬之助、頼むぞ」
(馬之助)「え?」
慌てながらも馬之助は補水液作りの作業に取り掛かった。
馬之助が桶と陶器の碗を抱えて走る。
(馬之助)「水...塩...! えっと、果物はこれでいいか?」
(ユズキ)「少量でいい。搾って混ぜろ。塩はひとつまみずつ慎重に」
(馬之助)「料理番組でもやってんのか...?」
その間にも、少年の呼吸は浅く速い。
エリンは少年の胸元をはだけさせ、耳を当てる。
(エリン)「胸の奥で水音がする……痰が絡んでいるわ」
ユズキは少年にそっと手を当てる
(ユズキ)「これは高すぎる...熱を下げる薬をつくる!」
エリンは布を冷水に浸し、額へ当て直す。
(エリン)「熱は体が悪しきものを追い出そうとする証。むやみに下げるべきではないと教わったわ」
(ユズキ)「いや、高すぎる体温はそうではない」
(ユズキ)「熱が長引けば体力を奪う。炎症を和らげたい」
エリンは怪訝な表情を浮かべる。
(エリン)「炎症って...? どうやって?」
ユズキは窓の外へ視線を向けた。
川沿い。
細長い葉を揺らす木々。
(ユズキ)「セイヨウシロヤナギ...あれだ!!!!!」
馬之助とユズキは急いで柳の樹皮を剝がし始める。
石で慎重に外皮を削り、内皮を削ぎ取る。
(馬之助)「これが? ただの木だぞ?」
(ユズキ)「奇しくも飛行機事故前最後の実験とほぼ同じだ」
(ユズキ)「ここにサリシンが含まれている」
そう、ユズキがこの世界にくる最後の実験と同じだった。
完全な合成アスピリンではない、だがサリシンも体内で解熱効果のあるサリチル酸となってはたらく。
だが、科学の "ルール" は変わらない——
エリンが薬草鍋をかき混ぜている。
ユズキは刻んだ柳の内皮を差し出す。
(ユズキ)「これを煎じてほしい。強く煮出しすぎないように」
エリンはうなずき、鍋に加える。
湯が淡く色づく。
苦い香りが立つ。
完成した補水液と柳を煮詰めた柳エキスを少年に飲ませる。
苦味に顔をしかめるが、飲み込む。
しばらく。
時間が、ゆっくり流れる。
(エリン)「……汗が変わった」
(エリン)「悪い熱の汗ではない。体が楽になったときの汗よ」
彼女は少年の脈を取る。
(エリン)「速いけれど、さっきより強い」
ユズキは静かに息を吐いた。
完全な治療ではない。
だが、炎症の勢いを削ぐことはできる。
エリンは柳エキスの残りを見つめる。
患者は多い。
柳だけでは足りない。
だが一つ、確信が芽生えた。
この世界でも、植物は同じ分子を持ち、人体は同じ反応を示す。
火の灯りが揺れる中、柳の苦い香りが、わずかな希望の匂いとして漂っていた。




