Episode : 2 (Helium) / 雷雲の彼方
ある日の放課後、いつものように理科準備室で論文を読み漁っていたユズキのもとに、校長自らが一通の封書を持ってきた。
今日も古びた換気扇が低く唸っている。
だが、昨日とは空気が違っていた。
ユズキは届いた一通の封書を何度も読み返していた。
白衣のまま、ホワイトボードの前に立ち尽くしている。
(ユズキ)「……本物、だよな」
机の上では、昨日精製したアスピリンの結晶が試薬瓶の中で静かに光っている。
ガラッ。
扉が勢いよく開いた。
(馬之助)「おーいユズキ、また薬作ってんのか……ってどうした?」
ユズキはゆっくり振り向いた。
そして、普段は滅多に見せないほどの笑顔を浮かべた。
指先がわずかに震えている。
(ユズキ)「馬之助」
(ユズキ)「イギリスに行く」
(馬之助)「……は?」
ユズキは封筒を見せた。
そこには英語でこう書かれていた。
Invitation from The Royal Society
英国王立協会からの招待状
「自然の中に眠る分子を精緻な手順で呼び覚ました若き賢者、ユズキ氏へ。君の理論、科学に対する情熱を当協会の特別セミナーにて執り行いたい」
王立協会。
1660年設立。
世界で最も歴史ある科学アカデミーの一つ。
そこには、人類史に刻まれた名前が並んでいる。
ニュートン。
ダーウィン。
マクスウェル。
そして――
(ユズキ)「講演してほしいらしい」
ユズキの科学に対する情熱が海を超えて評価されたようだ。
(馬之助)「いやいやいやいや」
(馬之助)「スケールおかしくない?」
その日。
理科準備室には、いつの間にか数人の同級生が集まっていた。
(???)「海外行くの!?」
(???)「王立協会ってテレビで見るやつ!?」
(???)「ロンドン!?」
ざわめきの中で、ユズキはホワイトボードを見つめていた。
そこには、昨日と同じ言葉。
SCIENCE IS THE ONLY COMMON LANGUAGE IN THE UNIVERSE!
彼は小さく呟いた。
(ユズキ)「科学は世界共通だ」
この快挙はすぐに学校中に広まった。ユズキ一人では不安だという学校側の配慮(という名の宣伝)により、数人の同級生が「研修」の名目で同行することになった。
(馬之助)「ロンドン!? メシまずいんだろ? コンビニのパン、スーツケースに詰め込めるだけ詰めていくわ!」
(???)「インスタ映え間違いなしじゃん!」
(???)「本場のビッグ・ベン見れるの?」
浮き足立つ彼らとは対照的に、さっそく、そして黙々とユズキは荷物のパッキングを始めていた。
(ユズキ)「白衣と...パソコン...論文も...」
(ユズキ)「ロンドンの水の硬度は水質は...pH試験紙と硬度計を持っていこう」
そして、ユズキは顕微鏡を移動の衝撃で割れないように丁寧に梱包し始めた。
馬之助はそれに気づく。
(馬之助)「おいおい、旅行に顕微鏡を持っていくやつなんか初めて見たわ」
(ユズキ)「旅行じゃない。科学を学びにいく」
数日後。
関西国際空港からロンドン・ヒースロー空港への直行便。
搭乗ゲートに向かうまでの間も、ユズキの脳内では19世紀の科学史が展開されていた。
隣で「飛行機怖い!」とパンを握りしめて震える馬之助の横で、ユズキだけはこれから始まる「聖地巡礼」への高揚感を、冷徹なまでの分析眼で噛み締めていたのだ。
機体は静かに滑走路を離れた。
巨大な機体は雲海へと上昇していく。
窓際の席で、ユズキは腕を組んでいた。
エンジンの低い振動。
整然と並ぶ翼のフラップ。
機械としての飛行機は、彼にとって興味深い存在だった。
(ユズキ)「飛行機は工学の結晶だ」
関心するユズキの横で、馬之助はおびえていた。
揚力。
ベルヌーイの原理。
翼の迎角。
人間が空を飛ぶという事実は、それだけで科学の勝利だ。
しばらくして、隣の席から声がした。
(馬之助)「なあ」
(ユズキ)「ん?」
(馬之助)「王立協会って、どんな人いるの?」
ユズキは窓の外を見ながら答えた。
(ユズキ)「マイケル・ファラデー...」
電磁誘導の発見。
モーターの原理。
電磁場の概念。
正式な数学教育すらほとんど受けていないのに、彼は自然の本質に触れた。
貧しい製本所の徒弟から独学で科学を志し、実験を何よりも重んじた彼の生き方は、ユズキの指針だった。
(ユズキ)「ファラデーは、肩書きじゃなくて好奇心で世界を変えた」
(ユズキ)「俺にとっては、生き方の参考だ」
馬之助は感心したように頷いた。
(馬之助)「へぇ」
そのときだった。
ゴッ――――
機体が突然揺れた。
小さな揺れ。
(???)「え?」
(???)「なに?」
(???)「揺れた?」
ユズキは冷静に状況を判断していた。
(ユズキ)「雨雲にひっかかったか...?なぜいきなり...」
機内アナウンスが流れた。
(???)「ただいま気流の乱れに……」
多くの乗客は安心する。
しかしすぐに。
ドンッ!!
今度は明らかに大きい。
客室がざわつく。
機体が大きく跳ね上がる。
窓の外。
そこには巨大な雲の壁があった。
積乱雲。ダウンバースト。乱気流。
機体が再び揺れる。
今度は上に。異様なほど機首が持ち上がる。
(???)「きゃあ!」
(???)「何これ!」
客室の悲鳴。
だがユズキは冷静だった。
(ユズキ)「失速...STALLする」
揚力は速度に依存する。
翼がいくら角度を持っていても、
空気が流れなければ意味がない。
そして、飛行機が上を向けばその分重力で減速し、揚力を失う。
座席モニターを確認する。
現在地。
インド洋上空。
(ユズキ)「……まずいな」
機体が落ちた、重力が身体を引きずり下ろす。
悲鳴が客室を満たす。
悲鳴が渦巻く機内。馬之助が隣で何かを叫んでいるが、ユズキの耳には届かない。
ユズキは騒ぎを気にしていなかった。
彼はただ、窓の外を見ていた。
黒い雲。
そして――
稲妻。空を裂く閃光。自然が生み出す巨大な電気現象。
彼の頭に、ある名前が浮かぶ。
マイケル・ファラデー。
電気と磁気を結びつけた男。
(ユズキ)「綺麗だ...」
そして。
墜落するはずの飛行機は――
どこにも落ちなかった。
いや、気づく時間すら与えられていなかったのかもしれない。




