第93話:環境操作勝利
グライゼル領、最終決戦。
視界を占める灰色の空から、高密度の水分が落下し始めた。
――雨だ。
網膜上で、脳内演算(TV)が環境データを更新する。
『降雨継続予測:百八十分/接地面:三十分後に泥濘化と判定』
背後で、誰かが声を上げた。
おそらくは味方の指揮官。
「この雨、作戦に使えるか?」
思考を介さず、首元の「外部メモ」を走査する。
『雨+泥=重力魔法の伝導阻害・減衰』
「……転用、可能です」
僕の回答と同時に、TVが戦術スキームを最適化していく。
『敵戦力:一千二百/推奨:環境干渉型・複合戦術/予測勝率:91.7%』
三十分後。
計算通り、平原の土は粘土質の泥へと変質した。
『泥濘化完了。重力魔法の効果、最大60%の減衰を予測』
「全軍、前進。これより敵本隊を排除します」
独立連隊が、僕の無機質な号令で駆動を始める。
前方、グライゼル公爵の本隊、一千二百。
公爵が腕を振り上げると同時に、空間の「負荷」が急上昇した。
重力魔法。
だが、泥となった地面がマナの伝達を乱していく。
『観測:重力加速度1.8倍(定数2.5倍)/効果の28%を無効化』
誤差の範囲内。計算通りだ。
「左翼は迂回。右翼は側面へ。指定座標に熱源を放て」
投げ込まれた松明が、事前に油を撒いた草地に接触。
一気に高熱の反応が広がる。
発生した高濃度の煙が、グライゼル軍の視界を物理的に遮断した。
『敵視界:30%以下に低下。陣形の維持、困難と判定』
「中央突破を開始。殲滅してください」
泥に足を取られ、視界を焼かれた敵陣へ、独立連隊が楔のように打ち込まれる。
それはもはや戦闘ではなく、効率化された作業だった。
百二十分後。
戦場から、敵対的な熱源反応が消失した。
『戦闘結果:完全勝利。敵損失:九百。降伏:三百』
『味方損失:五十。勝率予測との誤差:0%。的中』
完璧な、勝利。
だが、何も感じない。
「安堵」という化学反応も、「高揚」という電気信号も、僕の脳内には発生しない。
高輝度の熱源が、こちらへ駆け寄ってくる。
「ロラン! 勝ったぞ! 僕たちの勝ちだ!」
メモを検索。
個体名:『アルベルト』。
「肯定。勝利という結果を確認しました」
「君……本当に、何も感じていないのか……?」
「判別不能。理解できません」
その時。
TVの視界に、紅い警告色が明滅した。
『警告:敵狙撃兵を検知/距離:八百メートル/照準:ロラン/回避行動を推奨』
網膜に、弾道の予測線が描かれる。
数秒後、僕の頭部は撃ち抜かれる。
(……回避による、メリットを算出不能)
生きる理由が、見当たらない。
ならば、回避行動というエネルギー消費は無駄だ。
僕は、ただ立ち尽くした。
「主様ッ!!」
横方向から、強い物理衝撃。
誰かが僕を突き飛ばした。
直後、僕がいた空間を一本の矢が超音速で通過していく。
倒れ込んだ僕に、別の熱源が覆いかぶさっていた。
メモを検索。
個体名:『リーナ』。
「なぜ、避けなかったの……!? 死ぬところだったんだよ……!」
リーナの瞳から、高熱の液体が溢れ出し、僕の頬を濡らす。
「死んでも構わないと、判断しました」
平坦な、あまりに平坦な回答。
「何を……言ってるの……!」
「僕には、生存を継続すべき論理的根拠が見当たりません」
「なぜ生きる必要があるのか」
「なぜ死を回避しなければならないのか」
「全ディレクトリを検索しましたが、回答は……『空白』でした」
リーナが、獣のような声を上げて泣き始めた。
「やめて……お願いだから、そんなこと言わないで……!」
アルベルトが、崩れ落ちるように膝をついた。
「ロラン……ついに、生存本能まで消えたのか……?」
メモを確認。
『生存本能:個体が生存を継続しようとする根源的欲求』
「……肯定。そのようです」
「生きたいという欲求を、観測できません」
「死にたいという衝動も、存在しません」
「どちらでもいい。そう判定しています」
王である男の顔が、絶望に歪んでいく。
――その夜。
静まり返った天幕で、僕は最後の一行をメモに書き添えた。
『記憶破棄進行度:100%/完了』
『次回破棄予定:五感(痛覚・触覚)』
過去の蓄積は、すべて消えた。
次は、世界との物理的な接触(感覚)が消失を始める。
TVが、淡々と明日のスケジュールを表示する。
『明日:グライゼル領より撤退/座標:王都ルミナスへ帰還』
メモを見る。
『王都ルミナス:帰るべき場所』。
どこかはわからない。だが、そこへ向かうらしい。
灰色に塗りつぶされた世界。
完璧な勝利を収めても、心は動かない。
生きる理由を失っても、回路は止まらない。
記憶破棄、完了。
ただ、TVだけが青白く発光し、冷徹な数値を流し続けている。
それだけが、僕の「存在」の証明だった。
灰色の世界で。
ロランは、もはや自分が誰であるかも問わぬまま、ただ座り続けていた。




