第91話:ヴァルター・グライゼル戦
鉱山の戦いから、二十四時間が経過。
視界は、一面の灰色だ。
平原には二つの軍勢が対峙している。
独立連隊、一千五百。
グライゼル残存兵力、八百。
その中央。
高輝度の熱源を放つ「灰色の男」が立っていた。
「あれは……誰?」
リーナが問いかける。
僕の脳内演算(TV)が、即座にログを検索した。
『過去の戦闘記録:存在/個体名:ヴァルター・フォン・グライゼル』
『能力:重力魔法(重力加速度:2.0倍)/弱点:接地面の軟化』
数値は出ている。
だが、いつ、どこで戦ったのか。
記憶のディレクトリは、すでに空白だった。
「ロラン・フォン・アシュベル! 一対一で勝負しろ!」
灰色の男が叫ぶ。
「……肯定。受諾します」
なぜそう答えたのか、自分でも判別不能。
ただ、TVが算出した「最短の終結」に従ったに過ぎない。
馬を降り、剣を抜く。
「以前の戦いを覚えているか! 貴様は地面を泥にして、我が奥義を破った!」
「以前……?」
検索。
……該当データ、なし。
TVが最適解を提示する。
『推奨戦術:地面軟化作戦/水分投下により重力魔法を減衰』
「リーナ、水を地面に撒いてください」
「なぜ……? ロラン、急に何を……」
「データが、そう指示しています」
リーナの顔面筋が、複雑な収縮を見せた。
おそらくは「悲嘆」に分類される表情。
それでも、彼女は指示に従い、高輝度の水を地面に放つ。
平原の土が、またたく間に泥へと変質した。
「また、同じ手かッ!」
ヴァルターが叫び、突進してくる。
何が「また」なのか、僕には理解できない。
視界に、高輝度の走査線が走る。
TVによる剣の軌道予測。
白銀の光条に従い、体をわずかにずらす。
ヴァルターが重力魔法を強化した。
強烈な圧力が大気を震わせる。
だが――泥に沈んだ彼の足が、わずかにバランスを崩した。
「な……また、同じ……!」
その隙を、TVは見逃さない。
予測された「切断座標」へ、機械的に腕を振る。
肉を断つ感触。
剣がヴァルターの腕を、無機質に切り裂いた。
「貴様……本当に覚えていないのか……。『重力魔法は物理法則に過ぎない』。あの日、私にそう言い放ったはずだぞ……!」
物理法則――。
そんな言葉を、僕が吐いたのか。
記録にはない。
「判別不能です。覚えていません」
僕の口から出たのは、自身の耳にも冷たく響く、機械的な音。
ヴァルターの眼球が、驚愕に大きく見開かれた。
彼は再び突進してくるが、その動きはすでに演算の範疇内だ。
避ける。
切る。
避ける。
切る。
効率化された反撃が、ヴァルターの足を深々と切り裂いた。
「……勝負あり。行動不能と判定」
膝をついた男の喉元に、剣先を突きつける。
ヴァルターの瞳から、高熱の液体が溢れた。
それは灰色の頬を伝い、泥の中に落ちる。
「ロラン・フォン・アシュベル……貴様は……もう、人間ではないのか……」
人間――?
僕は、人間ではないのか――?
脳内温度、44.2℃。
タンパク質が変質を始める熱量の中で、思考が循環する。
僕は……誰だ?
首から下げた「外部メモ」を視認。
『僕の名前:ロラン』
文字情報は確認できる。
だが、その「ロラン」という概念が何を指すのか、定義が消失している。
「……参った。グライゼル軍は、これより撤退する」
戦いは終わった。
背後の兵士たちが、大きな音響を発して歓声を上げる。
だが、何も感じない。
勝利という事象を確認した。それだけだ。
「ロラン! やったね!」
高輝度の熱源が、こちらへ駆け寄ってくる。
アルベルト。
王であり、この個体の「親友」であるとメモに記された男。
彼は僕の手を握ろうとした。
血で汚れた、灰色の手を。
(この人は……誰、だっただろうか……)
一瞬。
回路が断線したように、認識が途切れた。
メモを見る。
『アルベルト』。
目の前の熱源(人間)と、その名前を結びつけるプロセスに、数秒を要した。
「ロラン……? どうしたんだい?」
「あなたは……誰ですか?」
疑問。
純粋な、情報の欠落による問い。
アルベルトの表情が、凍りついた。
「ロラン……僕だよ。アルベルトだよ……忘れたなんて、言わないでくれ……」
「アルベルト……」
文字列は一致する。
だが、確証がない。
「信じます」
僕は、感情を排した声で告げた。
「あなたがアルベルトだと、そのメモが言っている。だから、信じます」
アルベルトの瞳から、大量の熱い液体が零れ落ちる。
なぜ彼が外部への水分流出を止めないのか。
僕には理解できなかった。
――その夜。
陣営の天幕で、僕はひたすらメモを更新し続けた。
『記憶破棄進行度:95%/次回破棄予定:生存本能』
文字を刻む。
脳が焼ける前に。
『ヴァルターと交戦。勝利。過去の対戦記憶、なし』
『アルベルトの顔を認識不能。外部メモの記述により個体を識別』
灰色の空を見上げた。
星の輝きすら、今はただの「光度の数値」でしかない。
(僕は……誰だ……)
答えは、出力されない。
ただ、メモには『ロラン』と書いてある。
だから、僕はロランとして振る舞う。
理由も、根拠も、思い出もいらない。
ただ、外部の記録を信じる。
色彩を失った灰色の世界で。
ロランは、ただ静かに座り続けていた。




