第89話:西方貴族の裏切り
教国軍が王都から姿を消して、一週間。
朝。王宮の会議室。
アルベルトが、卓上の地図を広げた。
ロランの目に映るのは、高低差が明暗の濃淡だけで表現された、灰色の地図だ。
「ロラン、西方から急報だ。グライゼル公爵が反旗を翻した」
「グライゼル……」
その音節を、脳内のライブラリに放り込む。
……検索結果、ゼロ。
ロランは無機質な動作で、机の上のメモをめくった。だが、そこにも該当するデータはない。
「西方の有力貴族よ。魔石鉱山を支配し、独自の私兵団を持っているわ」
隣に立つリーナが、補足するように説明した。
彼女の放つ高明度の輝きが、不安げに揺れている。
「ロラン、大丈夫か……?」
アルベルトが覗き込むように聞いた。
「大丈夫……?」
(その語彙は、どの状態を指す変数だ?)
メモを確認する。
『大丈夫:機体の整合性に異常がない状態』
「……演算領域に致命的なエラーは確認されていません。異常なしです」
「そうか。だが……」
アルベルトはそれ以上言葉を続けられず、顔を伏せた。
「僕は……何をすればいい」
「君の力が必要だ。グライゼル軍は三千。対する我々の迎撃戦力は千五百」
数値。
ロランの思考が、一気に加速する。
視界を青いグリッド線が埋め尽くし、『タクティカル・ビュー(TV)』が起動した。
『敵:3000。味方:1500』
『地形:峡谷。現状勝率:28.3%』
「勝率28.3パーセント。峡谷にて待ち伏せを行い、地質構造を利用した分断工作を推奨。勝率は47.8パーセントまで上昇します」
ロランの声は、淡々とした合成音声のように会議室に響いた。
「ロラン、君は――。本当に、大丈夫なのか……?」
アルベルトの声が震えている。
その音波に含まれる感情の波を、今のロランはデコードできない。
「……不明です。生存に支障はありません」
正直な回答。
ロランは、ただそれだけを告げた。
廊下に出ると、待機していたゾフィアとすれ違った。
彼女の深い皺に刻まれた影が、以前よりも濃くなっている。
「ロラン殿、わしが新しい冷却装置を組んだ。持っていけ」
差し出されたのは、鈍い光沢を放つ銀色の冠。
以前のものより複雑な回路が組み込まれている。
「ありがとうございます」
「……」
ゾフィアは、何も言わずに目を閉じた。
「わしは……天才と持て囃されながら、たった一人の少年すら救えんのか……」
震える呟き。
だが、ロランにはその「救う」という概念の定義すら、もはや霧の向こう側だった。
夕方。独立連隊が王都を出立した。
アルベルトが、ロランの隣に愛馬を並べる。
「ロラン、僕も行く。王として、君の隣に立つ義務がある」
ロランは、手元のメモを確認した。
『アルベルト:王。親友。大切な人』
(大切な、人……?)
その文字の意味が、どうしても脳に定着しない。
「……了解しました。護衛の配置を再計算します」
「……ああ、頼むよ」
アルベルトの瞳から光量が失われるのを、ロランはただの「輝度の変化」として観測した。
夜。野営地の天幕。
ロランは一人、壁に貼ったメモを見つめていた。
『私は誰か?』
『なぜ、ここにいるのか?』
『なぜ、戦うのか?』
答えは、依然として出力されない。
彼はただ、新しい「命令」を上書きするように、ペンを走らせる。
『次の戦い:対グライゼル軍』
『場所:西方峡谷』
『勝率:47.8%』
目的は消えた。理由は消えた。
だが、戦場という名の数式だけは、依然として彼の脳を支配し続けている。
三日後。西方峡谷。
切り立った灰色の岩壁が、ロランたちの行く手を遮るようにそびえ立っていた。
「主様、敵軍を発見。約三千、縦隊で侵入してきます!」
リーナの報告。
ロランは瞳に魔導の灯を宿し、世界を再定義した。
『脳内温度:43.5℃。臨界域を突破。新型冷却装置、強制駆動開始』
『演算開始。峡谷の構造解析、完了』
「ガルド、前方三百メートルの岩壁――座標(X:124, Y:89)を打撃してください。その地点の熱量と振動が、均衡を崩す引き金になります」
「了解だ、ロラン様!」
巨大な槌を担いだガルドが、岩壁へ肉薄する。
渾身の一撃が、座標を正確に捉えた。
ドォォォォン……!
大地が悲鳴を上げ、岩壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
次の瞬間、何十トンという質量の岩石が、雪崩となって峡谷へ降り注いだ。
「何だ!?」「岩崩れだ!」「引け、引けぇ!」
阿鼻叫喚のノイズ。
分断された敵軍。
ロランはその光景を、高所から静かに見下ろしていた。
「前軍を叩きます。残存兵力、約千。現時刻での勝率、89.2パーセント」
独立連隊が突撃を開始する。
ロランは馬上から、TVによって敵の動線を一瞬ごとに計算し、指示を下し続けた。
夕方。
戦場には、沈黙が降りていた。
グライゼル前軍は壊滅。後軍は這々の体で撤退。
完全なる、勝利。
だが――ロランの胸に、風は吹かない。
「ロラン! 勝ったぞ! 君の策が、また王国を救ったんだ!」
駆け寄ってくる、アルベルト。
ロランはその顔を見つめた。
(この個体は……。誰だったか)
一瞬、思考が途切れる。
慌てて、首から下げた索引を引いた。
『アルベルト:王。仲間。大切な人』
「……ありがとうございます。アルベルト様」
「……。ああ……。そうだね……」
アルベルトの顔が、歪む。
ロランには、それが「悲しみ」なのか「苦痛」なのか、判別がつかなかった。
その夜。
陣幕の中で、ロランは震える手で新たなメモを刻んだ。
『記憶破棄進行度:85%』
『警告:次回破棄予定――生存本能、および自己防衛本能』
文字を読み返しても、自分のことだという実感が持てない。
灰色の夜空を見上げる。
(私は……なぜ、ここに……)
問いに、答える機能はもう残っていない。
それでも、明日になればまた戦場へ向かうだろう。
理由は、メモに書いてあるから。
目的は、数式が示しているから。
灰色の世界で、一人の装置は、ただ静かに立ち続けていた。




