第88話:教国撤退
教国包囲網、突破から一日。
朝。
ロランは意識を覚醒させた。
視界を埋めるのは、高輝度の光に焼かれた灰色の天井。
焦点が合わない。
ここがどこなのか、座標データの照合が完了しない。
彼は這いずるようにして、机の上の「外部記憶」に指をかけた。
『私の名前:ロラン』
『現在地:王都』
『重要個体:アルベルト、リーナ』
図形としての文字は認識できる。
だが――その「意味」が、脳を素通りしていく。
「ロラン」という音の響きが、自分という存在と結びつかない。
扉が開いた。
高い明度の、白磁の髪を持つ個体が室内に入ってくる。
「主様、朝です。今日――教国軍が、完全に撤退します」
ロランは、手元のメモに視線を走らせた。
『リーナ:斥候。重要個体』
「リーナ……。教国……。撤退……?」
オウム返しに音を出す。
だが、その単語の定義がライブラリから消失している。
戦うべき敵が去ること。それが何を意味するのか、今のロランには解析不能だった。
「主様が、勝ったんですよ」
「そう……ですか」
声は平坦。
達成感も、勝利の味も、検索結果には表示されない。
再び扉が開き、高明度の髪を持つ個体――アルベルトが踏み込んできた。
「君のおかげで、教国軍は去った。王都は救われたんだ、ロラン!」
アルベルトの音波が、激しく震えている。
彼は感極まった様子で、ロランの肩を強く抱きしめた。
「救う……? それは、どういう状態を指すのですか」
「……っ」
アルベルトは絶句し、さらに強くロランを抱きしめた。
その熱量は、今のロランにとって唯一の「生きたデータ」だ。
「ありがとう、ロラン。君は……最高の、友だった」
伝わってくる、過剰なまでの熱。
ロランは機械的な動作で、アルベルトの背に手を添えた。
それが「友情」への返答であると、壁のメモに記されていたからだ。
午後。王都南門。
教皇イノセントが、灰色の荒野を見つめて立ち尽くしていた。
民衆の信仰という「言霊の苗床」を失った教国に、もはやこの地を維持する力はない。
「撤退だ。いつか必ず、この屈辱を雪ぐ」
白い旗が降ろされ、灰色の軍勢が静かに遠ざかっていく。
ロランはその光景を、王宮の窓から「観測」していた。
だが、何も感じない。
その時、頭蓋の奥で凄まじい火花が散った。
『脳内温度:42.5℃』
『警告:自己防衛プログラム、強制破棄を加速』
脳内のライブラリが、音を立てて崩落していく。
つい数分前まで保持していた「文脈」が、黒い霧に飲まれて消えた。
(……あ。今、何を。なぜ、ここに)
存在理由。行動目的。
それらを定義するルートディレクトリが、完全に破損した。
「主様! 大丈夫ですか!?」
駆け寄ってくる、高い明度の髪の少女。
ロランは無機質な視線を彼女に向け、問うた。
「……個体識別を確認します。君は……誰だ?」
リーナの瞳から、大粒の熱い液体が零れ落ちる。
「私……リーナです……。主様の、仲間だよ……!」
「仲間……。それは、何を共有する関係ですか?」
「お願い……戻ってきて……!」
リーナが、泣き叫びながらしがみついてくる。
その熱。その震え。
だが、ロランの心という名の受像機は、もはや彼女の叫びを受信できない。
彼は事務的な動作で、リーナの背を撫でた。
その行為に、意味は一滴も含まれていない。
夜。
王都の街並みは、祝祭の灯りで高輝度に照らされていた。
勝利の叫び。歓喜のノイズ。
ロランは自室の暗がりに一人、鎮座していた。
壁に貼られた、昨日までの自分の残骸を見つめる。
『教国軍撤退:成功。次:???』
目的が、ない。
理由が、ない。
彼は震える指で、新しいメモにペンを走らせた。
『私は誰か』
『なぜ、ここに存在するのか』
『なぜ、戦う必要があるのか』
答えは、出力されない。
脳内温度計は、依然として臨界点を超えた数値を表示し続けている。
窓の外では、人々が笑い、歌い、熱狂している。
だが、その色彩のない喧騒の中に、ロランを繋ぎ止める鎖はもう一本も残っていない。
彼は、灰色の床に膝をついた。
(私は、誰か。なぜ、存在するのか)
感情は消えた。
記憶も消えた。
目的さえ、霧散した。
それでも――ロランの深層意識は、停止を拒否していた。
メモを頼りに。
数値を頼りに。
意味を失った灰色の世界で、ただ「ロラン・フォン・アシュベル」という演算を維持し続ける。
理由はわからない。目的も思い出せない。
それでも、立ち続けることだけが、彼に残された最後の意志。
遠く、教国の残影が消えていく。
王都は自由を取り戻した。
だが、その勝利と引き換えに、英雄は空っぽの殻になった。
自分が誰かもわからぬまま。
なぜ戦ったのかも思い出せぬまま。
ただ、温度だけが残る灰色の闇の中で。
ロランは、一人で立ち続けていた。




