第87話:包囲網突破
夜明け前。
ロランは、意識を浮上させた。
低明度の、灰色の天井。
彼は無機質な動作で、壁に貼られた「外部ストレージ」をスキャンする。
『今日は教国の包囲網を突破する』
『私はロラン・フォン・アシュベル』
「……了解」
記号化された情報を脳内の仮設フォルダへ展開し、彼は身体を起こした。
その時、扉が開く。
入ってきたのは、高明度の白磁の髪をした個体。
ロランは、枕元のリストを照合する。
『リーナ:斥候。重要個体』
「主様、おはよう」
個体――リーナが、音波を発した。
ロランは、その音波を受信し、デコードを試みる。
(……おはよう?)
エラー。意味が紐付かない。
音としては聞き取れる。だが、その概念が脳内のライブラリから消失している。
ロランは、壁のメモに視線を走らせた。
『おはよう:朝の定型挨拶。返答すべき語彙』
「……おはよう」
ロランは答えた。
感情の介在しない、ただの音の模倣。
リーナの眉がわずかに下がり、瞳の輝度が不安げに揺れたことに、ロランは気づかない。
朝食の席。
巨大な熱量を帯びた個体――ガルドが、物質(料理)を運んできた。
「ロラン様、朝食です」
「ありがとう」
ロランは答える。
だが、その言葉もまた、メモに従っただけの出力に過ぎない。
(ありがとう……。それは、何を定義する音だったか)
『ありがとう:感謝。利益に対する定型返答』
概念は理解できる。だが、実感が伴わない。
なぜ、この物質を供されることに感謝が必要なのか。
ロランにとって、それは単なる「エネルギーの補給」という事務的プロセスでしかなかった。
戦術会議。
高明度の髪を持つ男――アルベルトが地図を広げる。
「ロラン、教国軍が王都を包囲している。総兵力は2200」
数値が入力された瞬間、ロランの視界に高輝度のグリッド線が走った。
『タクティカル・ビュー(TV)』、自動起動。
『敵兵力:2200。味方兵力:300』
『兵力差:7.33倍。勝率:0.3%』
脳が高速演算を開始する。
周囲の人間が発する声は、もはや意味を持たないノイズとして切り捨てられていく。
「ロラン、聞いているか?」
アルベルトが呼びかける。
ロランは、その音波を受信する。
(聞いているか……。それは、情報の受信確認か)
『会話の基本:問いには肯定、または否定を返すべき』
「ええ」
ロランは機械的に答えた。
アルベルトが、悲痛な熱を帯びた瞳でロランを見つめる。
「ロラン、本当に大丈夫か?」
(大丈夫……? それは、機体の整合性を問うているのか)
『大丈夫:異常なしの状態を示す語』
「……異常ありません」
ロランはメモの内容をなぞり、出力した。
その時、頭蓋の奥で警告灯が激しく明滅した。
『脳内温度:41.5℃』
『警告:記憶領域への過負荷。言語野のパージを継続』
『進行度:68%』
(……言語が、消えていく)
「おはよう」も「ありがとう」も、今はただの空虚な記号だ。
ロランにとっての世界は、意味を剥ぎ取られた「数値」と「座標」だけの荒野へと変貌していく。
「ロラン、作戦は?」
「北へ、突破します」
ロランの声は、冷徹な合成音声のように響いた。
「東西へ陽動を展開。本隊は北の街道を全速力で突破。成功率、47.3%」
「47%……それで、大丈夫なのか!?」
(大丈夫……? また、その音波か)
「最大値です」
淡々とした回答。
アルベルトは、唇を噛み、絶望を押し殺すように頷いた。
夜。作戦開始。
東と西で、激しい熱源(松明)が揺れる。
教国軍の配置データがリアルタイムで書き換えられていく。
ロランは馬上で、視界を完全に数値化していた。
風景は消え、そこにあるのは移動するドットとベクトルのみ。
『敵兵:300→200。東へ流出を確認』
『突破確率:61.8%に上昇。時間制限:12分』
「主様! 前方に敵!」
リーナの声。
前方50メートルの座標に、灰色の障害物(敵兵)が出現。
『敵兵:50。交戦時間:480秒。ロス。間に合わない』
「迂回。左へ30度。距離500メートル」
「はい!」
ロランの演算に、一切の迷いはない。
連隊は、あらかじめ引かれた計算上のラインを正確になぞる。
敵との距離が離れていく。追いつかれる確率は、もはや無視できるレベルだ。
そして――包囲網の突破に成功した。
「成功だ……! ロラン、君は本当に――」
アルベルトが叫び、ロランの肩を掴んだ。
その熱量を、ロランは不快なノイズとして検知する。
「ロラン、大丈夫か!」
(ロラン……?)
ロランは、思考の海で足を止めた。
(ロラン……それは、何を指す変数だ?)
メモを確認する。
『私はロラン・フォン・アシュベル』
「ロラン……」
彼は、その音を出してみた。
だが、その名が自分という存在を定義している実感が、どこにもない。
ただの、文字列。
ただの、音響データ。
『脳内温度:42.0℃』
『警告:臨界域突入。自己認識のパージを加速』
『進行度:70%』
(自分が、誰なのか……分からない)
「ロラン……!」
アルベルトが、何かを叫んでいる。
だが、ロランにはもう、その言葉の意味が届かない。
「ロラン」という記号を、彼自身が拒絶し始めていた。
安全圏へ逃れた後。
ロランは一人、無機質な椅子に腰掛けていた。
壁一面のメモを、死んだ魚のような瞳で見つめる。
『私はロラン・フォン・アシュベル』
『ロラン:誰?』
『私:誰?』
新しい問いが、彼の指を動かした。
自分が誰なのか。自分という概念が、脳内のどこを探しても見つからない。
扉が開き、リーナが入ってきた。
高明度の少女。彼女の瞳から、灰色の液体(涙)が零れている。
「主様……私のこと、わかる?」
(わかる……? 認識の照合か)
メモを参照。
『リーナ:斥候。最初の仲間。大切な存在』
「リーナ。斥候」
ロランは、淡々と属性を読み上げた。
リーナが声を上げて泣き崩れる。
その絶望も、その愛も、今のロランには「理解不能なバグ」でしかなかった。
(ここは、どこだ)
(私は、誰だ)
ロランは窓の外を見上げた。
灰色の夜空。意味を失った星々。
(守らなければ……)
なぜ。
誰を。
(メモに、書いてあるから)
目的さえも、外部からの命令に依存し始めた「装置」。
ロラン・フォン・アシュベルであったはずの「何か」は、灰色の闇の中で、ただ次なる演算を開始した。




