第86話:記憶補完デバイス
翌朝。
ロランは、意識を覚醒させた。
いつもの、明暗だけで構成された灰色の天井。
慣れ親しんだはずの部屋。
だが――。
(ここは……どこだったか)
思考が空転する。
彼は壁に貼られた、膨大な量の「外部ストレージ」に視線を走らせた。
『ここは王都ルミナス。王宮の一室』
「……ルミナス。王都」
地名をなぞる。
だが、その文字列は脳内の地図データと結びつかない。
壁に貼られた広域地図を確認し、大陸中央に打たれた印を見る。
(座標、確認。現在地はここだ。だが――)
理解はできる。だが、実感が伴わない。
かつてその街の通りを歩き、人々の熱気を感じた記憶が、ごっそりと剥がれ落ちている。
その時、扉がノックされた。
「ロラン様、入るよ」
低く、年季の入った女性の声。
ロランは、付箋のように貼られたメモをスキャンする。
『ゾフィア:技術者。冷却装置の製作者』
「入ってください、ゾフィアさん」
扉が開き、白っぽい作業着を纏った老女が入ってきた。
その手には、鈍い金属光沢を放つ装置が握られている。
「ロラン様。昨夜、あの子たちから聞いたよ」
ゾフィアの声は、湿り気を帯びていた。
「あんたが、もう……愛情を失ってしまったことも」
「はい。感情的結びつきは、昨日付でパージされました」
淡々と、事実だけを報告する。
ゾフィアの瞳に、熱い膜が張った。
「辛いなんて……あんたには、もう届かない言葉なんだねぇ」
「概念としては理解していますが、実感値としてはゼロです」
ゾフィアは唇を噛み、持参した装置を差し出した。
ヘッドバンド型の、精密な魔導回路が刻まれた金属。
「記憶補完デバイス、試作一号機だよ」
「……記憶を、補助するのですか?」
「脳の記憶野に、微弱な魔導波を流す。それで強制的に想起を促す仕組みさ。あんたの演算能力に耐えられるか分からんが……」
ゾフィアの手で、冷却冠の上からデバイスが装着される。
瞬間、ロランの脳内に、針で刺すような鋭い刺激が走った。
「っ……!」
視界に、強烈なフラッシュバックが明滅する。
リーナの泣き顔。
ガルドが差し出したパンケーキの熱量。
アルベルトと共に歩いた、砂埃の舞う戦場。
だが、それは「無声映画」を倍速で眺めているような、極端に解像度の低い情報に過ぎなかった。
心は動かない。熱は宿らない。
そして、脳内OSが牙を剥く。
『脳内温度:41.2℃』
『警告:記憶補完デバイスとの干渉を検知』
『演算速度が外部入力を大幅に超過。処理不能』
『判定:デバイス不適合。強制切断します』
「……無意味です」
ロランは、加熱したデバイスを剥ぎ取るように外した。
「僕の演算速度に、この装置の書き込み速度が追いついていない」
「そんな……。わしの、最新の回路が……」
ゾフィアの手が、小刻みに震える。
天才と謳われた彼女のプライドが、目の前の少年の「人間離れした摩耗」を前にして、音を立てて崩れていく。
「ごめんよ、ロラン様……。わしの腕じゃ、あんたを……救ってやれない……」
老女は顔を覆い、その場に泣き崩れた。
ロランは、その熱い涙を無感動に見つめた。
「謝罪の必要はありません。ゾフィアさんは、最善の変数として機能しました」
慰めのつもりで口にした言葉は、冷酷なまでに機械的な響きを伴って、静かな部屋に空虚に響いた。
午後。
ロランは一人、壁のメモを書き換えていた。
『場所の記憶:全損』
『時系列の認識:崩壊開始』
地名は地図上の点になり。
過去は、日付のない断片的な記録へと成り果てた。
『アルベルトと会ったのは、いつか?』
『リーナと出会ったのは、何年前か?』
問いを立てても、答えが出ない。
一週間前と、三年前の区別がつかない。
時間の流れという「縦軸」が消滅し、世界はただ、断片的な「今」が重なり合うだけの空間に変貌していた。
(リーナ、か。メモによれば、最初の仲間。だが、いつから隣にいるのか、もう分からない)
扉が開き、高い明度の髪を持つ少女――リーナが入ってきた。
彼女が流す、灰色の涙。
ロランはそれを「視覚情報」としてのみ受け取る。
「主様。ここがどこか、本当にもう……思い出せないの?」
「王都ルミナス、ですね。文字情報としては確認しています」
「そうじゃないよ……! ここで一緒に笑ったこと、あの時守ってくれたこと……場所と、心が繋がってないの……?」
「……そのリンクは、すでに切断されています」
リーナの嗚咽。
ロランは、彼女の悲しみを「数式」として処理しようと試みる。
だが、時系列を失った彼には、彼女がなぜ「今」この瞬間に、これほど絶望しているのかさえ、論理的な解を導き出せなかった。
夜。
ゾフィアの工房では、アルベルトが怒声に近い悲鳴を上げていた。
「救えないだと!? 君が、この国で一番の技術者だろう!」
「無理なんじゃ……アルベルト様」
ゾフィアは作業台に突っ伏したまま、声を枯らす。
「あの子はもう、人間が作った装置じゃ追いつけない速度で……自分を燃やして、神の視点へ突き進んでいる……」
「そんな……。ロランを、このまま見殺しにしろと言うのか……!」
アルベルトの拳が、作業台に叩きつけられる。
天才の挫折と、王の絶望。
二人の熱い感情がぶつかり合う中で、試作一号機だけが、主を失ったまま鈍く光っていた。
自室に戻ったロランは、壁一面のメモに囲まれて立っていた。
『アイギス砦:座標確認』
『エモン:座標確認』
場所の名前を、頭に叩き込む。
数分後には、またただの文字列に戻るとしても。
(場所が消えた。時が消えた。感情も、消えた)
ロランは、窓の外を見た。
灰色の、名もなき街。
(次に消えるのは……僕という認識か)
『次回予定:自己認識のパージ』
視界の端に明滅する、残酷なシステムメッセージ。
ロランは、新しいメモにペンを走らせる。
『忘れてはいけない』
だが、何を守るためにこれを書いたのか。
その理由は、もうどこにも記されていなかった。
灰色の世界で。
時も場所も失くした少年は、それでもメモという杖を頼りに、一人、静かに立ち続けていた。




