第85話:リーナの涙
翌朝。
ロランは、意識の覚醒と共に視線を壁へ走らせた。
そこには、今日の行動指針が記号として貼り付けられている。
『本日の予定:リーナと面会。対話による状況確認』
「……了解」
独り言のように呟き、ロランは身体を起こした。
その時、扉が静かに開く。
入ってきたのは、高い明度を持つ白磁の髪をした少女。
ロランは、枕元のリストと彼女の姿を照合する。
『リーナ:斥候。銀髪。最初の仲間。重要個体』
「おはよう……リーナ」
ロランは、メモに記された「ラベル」を読み上げるように挨拶を返した。
リーナの眉が、わずかに下がる。その瞳の輝度が、悲しげに揺れた。
「主様……。また、メモを見てから名前を呼ぶんだね」
「ああ。これを見ないと、個体の識別タグが脳内で一致しない」
ロランの声は、淡々とした事実報告だった。
リーナは、震える手で小さな袋を差し出した。
「主様、これ……覚えてる? 私たちの、思い出の品だよ」
中から取り出されたのは、数枚の布切れ。
表面には、インクの染みによる文字が刻まれている。
『アイギス砦で、初めて会った日。主様は、私を選んでくれた。嬉しかった』
ロランは、その文字をスキャンした。
だが、そこから連鎖するはずの記憶の映像も、胸の鼓動も、一切が起動しない。
「……情報は読み取れる。だが、経験としての保存データが見当たらない」
「そんな……。あの日のこと、本当に忘れちゃったの……?」
リーナの瞳から、透明な熱い液体が溢れ出した。
頬を伝うその液体の熱量を、ロランはただ無機質な事象として観測する。
リーナは次々と布切れを並べた。
頭を撫でられた記憶。
かけられた言葉。
それらはかつて、ロランと彼女を繋いでいた「絆」の証拠だった。
だが、今のロランにとって、それは「他人の日記帳」を読まされているのと同義だった。
「すまない。その事象に関連する感情ログが、すべてパージされている」
「嘘……嘘だよ、主様……!」
リーナが崩れ落ち、ロランの膝にしがみつく。
伝わってくるのは、高い体温と、激しい震え。
「主様、私のこと……もう、何も感じないの……?」
「リーナという名前は覚えている。だが――」
ロランは、空虚な視線を彼女に落とした。
「なぜ君を特別扱いすべきなのか。なぜ、君が泣いているのか。その理由が、もうライブラリに存在しないんだ」
「……っ……!」
リーナは声を上げ、泣き崩れた。
彼女の叫びが、冷たい灰色の部屋に響き渡る。
ロランは、その音響エネルギーを鼓膜で受け止めながら、首を傾げた。
「リーナ。なぜ、それほどの熱量をもって泣いているのですか?」
その問いに、リーナは愕然と顔を上げた。
「なぜって……。私が、主様を……愛してるからだよ……!」
「ああ、愛情か」
ロランは、納得したように頷いた。
「生存に不必要な、過剰なエネルギー投下。それで、泣いているのですね」
絶望。
リーナの瞳から、生気が急速に失われていく。
ロランの胸に顔を埋め、必死に彼を揺さぶる彼女の手。
温かい。だが、その熱はロランの心を溶かすことはなかった。
その時、頭蓋の奥でアラートが鳴り響いた。
『脳内温度:40.5℃』
『警告:記憶領域への過負荷を確認。第4フェーズ・パージを完遂します』
『進行度:52%』
(……52パーセント。過半数を超えたか)
『対象:感情的結びつき(全消去)、日常会話ログ、残存する幼少期記憶』
『次回予定:場所の記憶、時系列認識の剥奪』
脳内から、最後のリミッターが外れる感覚。
アルベルトへの友情、ガルドへの信頼、リーナへの慈しみ。
それらすべてが、無意味な「ノイズ」として処理され、消去の深淵へと投げ込まれた。
午後。
部屋を訪れたガルドとアルベルトも、また同じように熱い涙を流していた。
「ロラン様……。俺は、あなたのために料理を……」
「ロラン……! 俺たちは、親友だったじゃないか……!」
彼らが吐き出す、熱を帯びた言葉の数々。
だが、ロランには、それが壊れた楽器の音色のようにも、意味のない文字列の羅列のようにも聞こえた。
「ありがとうございます。ですが、私にはもう、あなた方への感情がありません」
ロランの返答は、機械仕掛けの人形のように正確で、冷徹だった。
アルベルトが膝をつき、ガルドが拳を握りしめる。
その悲劇的な光景すら、ロランの網膜には「光量の変化」としてしか記録されない。




