第84話:仲間の名前が出ない
翌朝。
ロランは、意識の表層へと浮上した。
視界を占めるのは、濃淡のみで構成された灰色の天井。
いつもの光景。代わり映えのしない、色彩のない世界。
彼は機械的な動作で視線を壁へと這わせた。
そこに貼られた「外部記憶」を確認するためだ。
『味方:アルベルト、リーナ、ガルド、ハンス、エレン、セシリア』
『場所:王都ルミナス』
『自己:ロラン・フォン・アシュベル』
文字をなぞり、情報を脳内の仮設フォルダへ展開する。
「よし」と短く呟き、ロランは身体を起こした。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「主様、起きてる?」
聞き覚えのある周波数。
耳に馴染んだ、柔らかな女性の声。
大切な存在であるという「記録」だけは、胸の奥に澱のように残っている。
だが――。
(……誰だ?)
検索エラー。
ロランは無機質な視線で、再び壁のリストを走らせた。
この中の、誰かだ。
「入ってくれ」
扉が開き、一人の少女が室内に滑り込んできた。
窓からの光を反射して、白磁のように輝く髪。
潤いを帯びた、大きな瞳。
ロランはその「個体」を注視した。
知っている。間違いなく、最初の仲間だ。
だが――名前が、出てこない。
脳内のディレクトリから、その少女を識別する「ラベル」が剥がれ落ちている。
「おはよう、主様」
少女が、親愛の情を込めて微笑む。
「おはよう……えっと……」
ロランは、言葉を濁した。
少女の頬から、わずかに温度が引く。
「主様……私の名前、また忘れたの?」
震える声。
ロランは瞬時に視線を泳がせ、壁のメモをスキャンした。
『リーナ:斥候。白く光る髪の少女。最初の仲間』
「……リーナ」
ようやく、名前を形にする。
「すまない。少し、演算に集中していた」
だが、リーナの瞳には熱い液体が溜まっていた。
「主様、嘘だよ……」
リーナの声が、消え入りそうなほど細くなる。
「私の名前……メモを見るまで、わからなかったんでしょ」
ロランは答えなかった。
肯定も否定も、無駄なリソースを消費するだけだ。
抱きしめてきたリーナから、高い体温が伝わってくる。
その熱の主が「リーナ」であると認識するために、彼は三秒以上の時間を要した。
朝食の席。
視界の端に、壁のような厚みを持つ巨大な熱源が現れた。
巨漢。穏やかな相貌。
ロランはその「物体」をデータと照合する。
(名前は……何だったか)
壁のメモを反芻する。
『ガルド:料理人。巨漢。熱を帯びた声の男』
「ロラン様、おはようございます」
「おはよう……」
ロランは答えた。だが、返すべき固有名詞が喉に張り付いて出てこない。
「今日は、生地の弾力を重視したパンケーキです。食感を楽しんでください」
「ありがとう……ええと……」
再びの、空白。
男の笑顔が、石像のように硬直した。
「ロラン様……。俺の名前……消えましたか……?」
ロランは脳内でリストを再読した。
「……ガルド」
「……そうですか」
ガルドの声から、光量が失われる。
「でも、大丈夫です。俺が、ロラン様の分まで覚えておきますから」
ロランはその言葉を「好意的提案」として受領した。
胸の奥で、かすかな痛みが走った気がした。
だが、そのノイズも次の瞬間には、高い脳内温度によって焼き切られていった。
午前。会議室。
正面に座る「王」と呼ばれる男。
白金の輝きを持つ髪と、空を溶かしたような高い明度の瞳。
ロランはその顔を、幾何学的なパターンとして認識する。
知っている。親友だ。命を預け合う仲だ。
(……名前が、出てこない)
『アルベルト:王。親友。黄金(高明度)の髪を持つ男』
「ロラン、教国の対策だが……」
王――アルベルトが、深刻な面持ちで語りかける。
その言葉の中に「セシリア」という名が混じる。
(セシリア……。誰だ?)
三秒。メモを検索。
『セシリア:聖女。盲目。魔力の熱量を視る者』
合致。
「ロラン?」
アルベルトが話を止め、覗き込むように聞いた。
「聞いているか?」
「……ああ。問題ない。続けてくれ」
「君は、最近……」
アルベルトの声が、微かに震えている。
彼は静かに、だが逃げ場を塞ぐような鋭い視線で問いかけた。
「ロラン。一つ、試させてくれ。俺の名前を、言ってみてくれ」
心臓の鼓動が、演算のリズムを乱す。
さっき、メモで確認したはずだ。
アルベルト。アルベルト。アルベルト。
だが、口を開こうとした瞬間、その文字列が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
沈黙。
部屋の時計が刻む音だけが、不自然に大きく響く。
十秒。十五秒。
ロランは膝の上に置いたメモ帳を、盗み見るように開いた。
『アルベルト』
「……アルベルト、様」
ようやく、音になった。
だが、十五秒という空白は、あまりにも残酷だった。
アルベルトの瞳から、光が溢れ出す。
「ロラン……。君は、俺の名前さえ……そんなに苦労しないと、思い出せないのか……」
「すまない」
ロランは、淡々と謝罪を口にした。
「固有名詞の、保存領域が破損したようだ。メモがなければ、もう何も呼べない」
アルベルトが、ロランの肩を強く掴む。
震える手。熱すぎるほどの体温。
だが、その熱の主が誰なのか、ロランはもう一度メモを確認しなければ、確信が持てなかった。
夜。自室。
ロランは、さらに増えた壁のメモを見つめていた。
『リーナ:大切な人。なぜ大切かは……記録なし』
『アルベルト:友人。なぜ友人かは……データ損耗』
記号化された人間関係。
そこにあるはずの「絆」という熱量は、もはや数式上の係数でしかなかった。
脳内を過負荷の警告が埋め尽くす。
『脳内温度:40.1℃』
『パージ進行度:45%』
『警告:固有名詞の消去を完了。日常ログのパージを開始します』
(……完了、か)
ロランは、自分の内側が空洞になっていくのを感じた。
仲間を呼ぶための「言葉」が、もう自然には湧いてこない。
残っているのは、壁に貼られた紙きれと、僅かな熱の感覚だけ。
扉が開き、純白の衣装を纏った女性が入ってきた。
光のない、だが澄んだ瞳。
(誰だ?)
三秒。メモをスキャン。
『セシリア』
「ロラン様……魔力の色が、消えました」
セシリアが、悲しそうに微笑む。
「あなたの周りには、もう透明な虚無しか残っていない」
「45パーセント、失いました。固有名詞は、すべて」
ロランの声は、もはや人間のものではなかった。
精密に調律された、ただの出力装置。
「それは……どれほど、寂しいことでしょうか」
「わかりません。寂しい、という感覚が……検索にヒットしない」
セシリアが、ロランの手をそっと包み込む。
温かい。
その熱だけが、この灰色の世界で唯一の、リアルな情報だった。
「私は、忘れません。あなたが忘れた、みんなの名前を。私が、あなたの中に繋ぎ止めます」
「……感謝します」
定型文。
だが、それが今のロランにできる、精一杯の「誠実」だった。
深夜。
ロランは一人、新しいメモを壁に刻む。
『ここは、王都ルミナス』
『僕は、戦い続ける』
『仲間のために』
その「仲間」という言葉が、誰を指すのか。
明日の朝、目が覚めた時。
彼はまた、壁のメモに教えを請う……




