第9話:狼の鼻
帝国軍の騎兵を退けてから、数時間。 アイギス砦の中には、ぴりついた緊張が充満していた。
兵士たちは休む間もなく城壁の補修に当たり、矢を補充し、次の「波」に備えている。 そして――。 誰もが、一人の少年の指示を待っていた。
名ばかりの守備隊長、ギルマー男爵ではない。 魔法を持たぬ軍師、ロラン・フォン・アシュベルの言葉を。
ロランは見張り台の隅に立ち、北の地平線を凝視していた。 帝国軍の野営地は、先ほどから位置を変えていない。 だが、何かが決定的に違う。
立ち上る煙の量だ。 ただの炊事にしては、あまりに多すぎる。
「…… 一体、何を作っているんだ」
ロランが独りごちた、その時だ。 背後に、音もなく「影」が落ちた。
「…… また、驚かされましたよ」 ロランが苦笑しながら振り返ると、そこにはリーナが立っていた。 彼女は挨拶もそこそこに、ロランの隣に並び、その鼻を小さく動かした。
「主様、何を見てる?」
「敵の陣営です。あの煙、不自然だと思いませんか」
ロランが指差す先を、リーナは灰色の瞳でじっと見つめ、再び空気を吸い込んだ。 獣人特有の、極めて鋭敏な嗅覚。
「…… 木を焼いてる。 大量に」 リーナの耳がぴくりと動く。 「松。 油の多い、質のいい木。 …… それと」
彼女の表情が、わずかに険しくなった。 「鉄の匂い。真っ赤に熱した、重い鉄の匂いがする」
木材と、熱せられた鉄。 その二つが組み合わさって作られるもの――。 ロランの脳内で、瞬時にパズルのピースが組み合わさった。
「…… 攻城兵器か」
「こうじょう、へいき?」
「ええ。城壁を登るための櫓か、あるいは門を砕くための破城槌です。 あの煙の量は、それらを急速に組み上げている証拠だ」
ロランの瞳が、青く冷たく輝く。 『タクティカル・ビュー』――部分起動。 敵の工作速度、資材の量、移動距離。 すべての変数を演算し、完成までの猶予を弾き出す。
「…… 明日の夜までには完成しますね。 そうなれば、この砦の門は持たない」
ロランは、リーナを真っ直ぐに見つめた。 「リーナ、お願いがあります」
「…… 何?」
「今夜、もう一度だけ敵陣に潜入してください。ある『確認』をしてほしいんです」
夕刻。 ロランは、アルベルト、ハンス、ガルド、そしてリーナを招集した。 地図を広げたテーブルを囲み、一同に緊張が走る。
「敵は、秘密裏に強力な攻城兵器を製作しています。場所は野営地の北東部」
「そんなこと、どうやって……」 ハンスが驚きを露わにするが、ロランは落ち着いて返した。
「リーナの鼻です。松脂の焼ける匂いと、鉄の加工臭。 彼女の五感が、敵の隠し事を暴きました」
ロランは、リーナの肩にそっと手を置いた。 「今夜、彼女にその『正体』を突き止めてもらいます」
「…… 危険すぎないかい?」 アルベルトが眉をひそめる。
「大丈夫」 リーナは短く、けれど力強く答えた。 「私、夜目が利く。音もなく動ける。 …… 主様が言ったから、やる」
「…… わかった。 頼むよ、リーナ」 アルベルトは彼女の瞳に宿る覚悟を読み取り、静かに頷いた。
その夜。 厚い雲が月を覆い、世界が深い闇に沈んだ。
リーナは灰色の外套を纏い、夜風に溶けるように砦を後にした。 見送るロランの隣には、大きな腕組みをしたガルドが立っている。
「…… 心配か、主様」
「ええ。やはり、彼女一人に頼りすぎるのは……」
「ははっ、案ずるな。銀狼族ってのは、狼族の中でも特別なんだ。 感覚の鋭さだけじゃなく、執念深さもな」 ガルドは豪快に笑い、それから少しだけ声を落とした。
「それに、あの子はお前のことを心の底から慕ってる。お前が鼻血を出すたびに、あの子がどんな顔をしてお前を睨んでるか、気づいてねえのか?」
「…… え?」
「気づいてねえだろうな。…… あの子、お前の体調が少しでも狂うと、すぐに『におい』で察しちまうんだ。 自分を削って計算するお前を、あの子なりに守ろうとしてるのさ」
ロランは、何も答えられなかった。 ただ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
その頃。 リーナは、音のない風となって帝国軍の野営地を駆け抜けていた。
兵士たちの粗野な笑い声、焚き火の爆ぜる音。 それらを聴覚の網で捉え、隙間を縫うように移動する。 やがて、彼女の鼻が目的の「におい」を捉えた。
鉄。 油。 そして、膨大な熱。
影から影へ。 見張りの視線が逸れる一瞬を突き、目標へと到達する。 巨大な幕に覆われた、その中身を覗き込んだリーナは――息を呑んだ。
それは、想像を絶するほどに巨大な『破城槌』だった。 鋼鉄で何重にも補強された太い丸太。 先端には、羊の頭を模した禍々しい鉄塊。 あれが一度でも門を叩けば、アイギス砦の運命は尽きる。
(主様に…… 教えなきゃ……! )
リーナは慎重に後退を開始した。 だが、その時――。
パキッ。
不運にも、わずかな乾燥した枝が足元で鳴った。
「――誰だッ!」
見張りの叫び。 リーナは即座に跳躍した。 地面を蹴り、テントの屋根を飛び越える。獣人離れした身体能力が、闇夜に軌跡を描いた。
「斥候だ! 獣人を捕らえろッ!」
怒号が連鎖し、陣営全体が蜂の巣を突いたような騒ぎになる。 リーナは迷わず全速力で駆け出した。 背後からは、騎馬の蹄の音が迫り来る。
だが、リーナの心に恐怖はなかった。 ただ、この情報を持ち帰ること。それだけが、彼女のすべてだった。
砦では、ロランが既に城門に立っていた。
「門を開ける準備を! あと一分でリーナが戻る!」
「一分!? まだ姿も見えねえぞ!」 ハンスが叫ぶが、ロランは動じない。
「計算です。彼女の脚力、敵の反応速度、ここまでの距離。 …… あと三十秒」
闇の先。 土煙を上げて駆ける銀色の影が見えた。 その後ろには、十数騎の帝国騎兵。
「城門、開けッ!」
滑り込むようにリーナが砦へ飛び込む。 間髪入れず、ロランが叫ぶ。
「閉じろッ!!」
ズゥゥゥンッ! 重厚な音が響き、城門が固く閉ざされた。 追ってきた騎兵たちが、門の前で忌々しそうに馬を引き返していく。
「はあ…… はあ…… ッ!」
膝をつき、激しく肩で息をするリーナ。 ロランが駆け寄り、彼女を支えた。
「リーナ、大丈夫ですか?」
「主様……」 リーナは汗ばんだ額を上げ、確かな情報を差し出した。 「破城槌…… 見た。 巨大な、鉄の塊。 …… 明日の夜、完成する」
「…… やはり、そうでしたか」
「それと、兵士は五千。…… あと、赤い羽飾りの男。 あれが、指揮官。 冷たくて、嫌なにおいがする」
ロランは頷き、リーナの頭を優しく撫でた。 「よくやってくれました、リーナ。本当に助かりましたよ」
リーナは微かに頬を染め、小さく、満足そうに笑った。 「…… 主様のため。 …… なら、いい」
その夜。 ロランは直ちに次の作戦を伝えた。
「敵は明後日の朝、完成した破城槌で総攻撃を仕掛けてきます。…… その前に、あの兵器を無力化します」
「どうやって!?」
「工作部隊を送り込みます」 ロランはガルドを見た。 「ガルドさん。リーナと共に、もう一度敵陣へ向かってください」
「俺が!? この図体で忍び込めってのか?」
「いいえ。潜入はリーナが手導します。 あなたは、破城槌の『心臓』を壊すだけでいい」 ロランが示したのは、車輪の軸受けの図解だった。
「そこを壊せば、あの巨体はただの動かない木材に変わる。…… あなたなら、一撃で壊せるはずだ」
翌夜。 リーナとガルドは、暗闇へと消えていった。 一時間後。 北の地平線で、小さな、けれど確かな爆発音が響いた。 火柱が上がり、敵陣が混乱に揺れるのが見える。
「成功…… したのか?」 ハンスが固唾を呑む。 やがて闇の中から、意気揚々と引き上げてくる二人。 「はっはー! 派手に壊してやったぜ、軍師様!」 ガルドの豪快な報告に、砦全体が沸き立った。
しかし、喜びは長くは続かなかった。 翌朝。 切り札を失った帝国軍は、怒りに任せた、なりふり構わぬ総攻撃を開始したのだ。
五千の兵が、地鳴りのような咆哮と共に砦へ殺到する。
「来たぞ…… いよいよだッ!」
ロランは、城壁の最前線に立った。 目の前を埋め尽くす、死の軍勢。 ――タクティカル・ビュー、全面起動。
世界が数式に解体される。 熱を帯びる脳。 溢れ出す鼻血。 だが、ロランの瞳には、勝利への道筋がはっきりと刻まれていた。
「全員、僕の指示に従ってください」 彼の声が、戦場の喧騒を圧して響き渡る。
「…… 必ず、生きて帰します。 計算は終わりました」
アイギス砦、真の決戦。 その幕が、いま、劇的に切り落とされた。




