第83話:母の名前忘却
翌朝。
ロランは、灰色の静寂の中で意識を覚醒させた。
光量の乏しい天井。無機質な部屋。
世界は、いつも通り色彩を欠いている。
起き上がろうとした際、指先に硬い感触が触れた。
枕元に置かれていた、鈍く輝く金属のペンダント。
ロランはそれを手に取り、蓋を開ける。
そこには、一人の女性の肖像が描かれていた。
淡い階調で表現された、穏やかに微笑む女性。
だが――。
(……これは、誰だ?)
思考が、ライブラリとの照合に失敗する。
未知の人物。記録にない顔。
ロランは無表情に、壁に貼られた「外部ストレージ(メモ)」へと視線を移した。
『母の名前:エレナ・フォン・アシュベル』
『大切な人。形見のペンダントを肌身離さず持つこと』
「母……。エレナ」
その名前を、唇に乗せてみる。
だが、記号以上の意味は持たなかった。
かつてその名に付随していたはずの、胸を締め付けるような愛着も、懐かしさも、一切がパージされている。
ロランは、冷たいペンダントを握りしめた。
伝わってくるのは、金属の冷感だけ。
そこには、人間的な熱は一滴も残っていなかった。
「主様、起きた?」
扉が開き、リーナが入ってきた。
ロランの手にあるペンダントを見つけると、彼女の瞳に熱い膜が張る。
「あ、お母様の……。大切にしてるんだね、今日も」
「……ああ」
ロランは短く肯定した。
肯定すべきだと、メモに書いてあったからだ。
「主様。エレナ様のこと、ちゃんと覚えてる?」
「エレナ……」
ロランは、その固有名詞を反芻する。
だが、脳内の検索結果は「0件」のままだ。
「誰だ、それは?」
静かな、問いかけだった。
リーナの表情が、一瞬で凍りつく。
「主様……? エレナ様は、あなたのお母様だよ。あなたを、誰よりも愛してくれた……」
「……そうか」
ロランの声は、平坦だった。
知らない他人の美談を聞かされているような、奇妙な疎外感。
リーナは、耐えきれずにロランを抱きしめた。
首筋に触れる、彼女の体温。
震える呼吸。
それは人間らしい「熱」だったが、今のロランには、その熱が何を意味しているのかを解析できない。
「すまない。思い出せないんだ」
淡々と告げるロランの手が、機械的な動作でリーナの頭を撫でる。
そこには、慰めの感情すら介在していなかった。
昼。
会議室に、沈黙が重くのしかかっていた。
対面に座るアルベルトが、絞り出すような声でロランに問う。
「ロラン。一つだけ、答えてくれ」
「何でしょうか」
「君の、母親の名前は」
ロランの演算領域が、猛烈な速度で記憶を検索する。
エレ……。エ……。
昨日まで、確かにそこにあったはずのデータ。
だが、出てこない。
検索結果:Not Found。
「……」
ロランは、無言で首を振った。
アルベルトが、デスクを握りしめる。指の関節が白く浮き出るほどの力。
「ロラン……君は……もう……」
「問題ありません。記憶がなくとも、戦術の立案は可能です」
ロランの返答は、極めて論理的だった。
親友の瞳に宿った悲痛な光すら、彼は「光量の揺らぎ」としてしか観測していない。
「大丈夫です。僕は、戦えます」
冷徹なまでの宣言。
アルベルトは、言葉を失ったまま、ただロランの肩を強く掴み続けるしかなかった。
その夜。
ロランは、自室の壁に新たな紙を貼り付けていた。
『脳内温度:39.8℃』
『パージ進行度:38%』
『警告:仲間の固有名詞、場所の記憶が、削除待機リストに移行』
ペンを握る指先は、迷うことなく動く。
感情が欠落した分、記録への執着が「装置」としての性能を高めていた。
「ロラン様」
背後で、セシリアの声がした。
彼女の「視る」魔力は、ロランの変化を敏感に察知している。
「魔力の色が……さらに透き通っています。まるで、何も存在しない虚空のように」
「38パーセント、消えました」
ロランは振り返らずに答える。
「母の名前も、完全に。今、その名前を読んでも、僕には何の意味も持ちません」
セシリアが、彼の隣に並び、そっとその手に触れた。
「エレナ・フォン・アシュベル様。私だけは、そのお名前を覚えています。あなたの代わりに、私が守ります」
「……助かります」
その感謝すら、あらかじめ設定された定型文のような響きだった。
ロランは、壁一面に並んだメモを見つめる。
そこには、彼の「人生の断片」が記号となって貼り付いている。
『アルベルト:王、友人、守るべき対象』
『リーナ:最初の仲間。銀髪の斥候』
「……次は、君たちの名前か」
ロランは、独り言のように呟いた。
恐怖はない。悲しみもない。
ただ、重要なバックアップを紛失することへの「不便さ」だけを感じていた。
彼は、ペンダントをそっと閉じた。
中にある肖像画の女性が、誰なのか。
今はもう、メモを見なければ答えに辿り着けない。
それでも、ロラン・フォン・アシュベルは戦場に立ち続ける。
人間としての心を切り刻み、灰色の「勝利」へと至る燃料として、すべてを燃やし尽くしながら。
灰色の世界。
記憶なき英雄は、一人、また新たなメモを壁に刻んだ。




