第82話:忘却の加速
朝。
ロランは意識を浮上させた。
視界を占めるのは、濃淡だけで構成された灰色の天井。
かつて愛でていたはずの調度品。
窓からは、白く焼き付くような光が差し込んでいる。
だが――。
(ここは……どこだ?)
一瞬、思考が空白になった。
ベッドの感触も、部屋の配置も、すべてが「初見のデータ」として脳に放り込まれる。
既視感の対極。慣れ親しんだ風景が、見知らぬ異郷のように彼を突き放していた。
(……おかしい)
ロランは重い上体を起こし、机へ向かった。
そこには、殴り書きされた無数のメモが散乱している。
壁に貼られた、ひときわ大きな紙が目に留まった。
『ここは王都ルミナス、王宮の一室』
『あなたはロラン・フォン・アシュベル』
『味方:アルベルト、リーナ、ガルド、ハンス、エレン、セシリア』
「……そうだ。ここは、王都だ」
声に出して読み上げ、記憶の断片を無理やり繋ぎ合わせる。
だが、なぜ忘れたのか。その理由すら、今の彼にとっては霧の向こう側だった。
(朝、目が覚めて――自分の居場所を忘れる? ありえないエラーだ)
ロランは窓の外を凝視した。
灰色の石造りの街並み。だが、自分がいつ、どうやってこの街に来たのか。そのプロセスが、脳内のライブラリから完全に消去されている。
「主様!」
扉が勢いよく開き、一人の少女が飛び込んできた。
鈴を転がすような、弾む声。
陽光を反射して白く輝く髪と、大きな瞳。
ロランは、反射的にその少女を「スキャン」した。
(この個体は……誰だ?)
一瞬の沈黙。
ロランは慌てて手元のメモに視線を落とした。
『仲間:リーナ』
『銀狼族の斥候』
『最初の――大切な、仲間』
「……リーナ。おはよう」
喉の奥から絞り出すように名前を呼ぶ。
リーナは一瞬、足を止めた。その笑顔の端が、不安げに震える。
「主様……? 大丈夫?」
「……ああ。少し、寝ぼけていただけだ」
それは、演算によって導き出された「最適解」としての嘘だった。
廊下を歩きながら、ロランは自らの意識下を検索し続ける。
(母の名前は――)
昨日、壁に貼ったメモには書いてあった。何度も口の中で繰り返した。
だが、今そのフォルダを開いても、中身は空っぽだ。
(エ……エレ……。思い出せない)
かつて自分を抱きしめてくれた、実体のない温もり。
その「名前」という識別タグが、完全にパージされている。
「主様、こっちだよ」
リーナがロランの手を引いた。
指先から流れ込んでくる、高い体温。
今の彼にとって、その生物学的な熱量だけが、彼女を「人間」として認識させる唯一の証拠だった。
食堂では、大柄な男が鉄板に向かっていた。
「ロラン様、おはようございます! 今日は食感重視のパンケーキですよ!」
ガルド。メモによれば、信頼できる料理人だ。
だが、彼とどこで出会い、何を語り合ってきたのか。そのエピソードは、すでに塵となって消えていた。
目の前に置かれたパンケーキ。
湯気が立ち上り、確かな熱を帯びている。
ナイフを入れれば、柔らかな弾力が手に伝わった。一口、運ぶ。
味覚は、すでに死んでいる。
ただ、温かな物質が喉を通っていく感覚だけを、事務的に処理した。
「……美味しい、気がする」
「ははっ! そいつは光栄だ!」
ガルドが快活に笑う。
その表情の輝度が、わずかに落ちたことに、ロランは気づかない。
食後、ロランは執務室へと向かった。
だが、勝手知ったるはずの廊下で、彼は立ち止まる。
(執務室は……どこだ?)
「主様、右だよ」
隣を歩くリーナが、静かに言った。
彼女に導かれ、部屋に入る。
机の上には、昨日書いたはずの戦略メモが山積みになっていた。
『教国の動向を監視』『セシリアの護衛体制』『ゾフィアと冷却装置の相談』
文字は読める。意味も理解できる。
だが、それを書いた時の自分の「意図」が、どうしても思い出せない。
他人が書いた報告書を読まされているような、奇妙な疎外感。
その時、頭蓋の奥を焼くような激痛が走った。
『脳内温度:39.5℃』
『警告:記憶領域への過負荷。パージを継続します』
『進行度:28%』
(……二十八パーセント)
昨夜から、さらに十三ポイントの増加。
記憶の断片が、加速度的に剥がれ落ちていく。
『対象:幼少期の記憶、故郷の全景、日常ログ』
『次回予定:固有名詞、感情的結びつきの全消去』
ロランは、その警告を冷徹に見つめた。
恐怖。
かつては感じていたはずのその感情も、今は薄氷のように脆く、すぐに霧散していく。
「ロラン、装置の調整に来たわよ」
現れたのは、魔導工学技師、ゾフィア。
彼女の手慣れた動作で、ロランの頭部の冷却冠が外される。
「……冷却効率が六十六%まで落ちているわね」
ゾフィアの声が、硬い。
「このままだと、破棄のスピードはさらに上がる。一刻も早く『外部記憶装置』を形にしないと、あなたは空っぽの殻になっちゃうわ」
「お願いします。できるだけ、早く」
ロランは、淡々と答えた。
自分の心が消えていくというのに、彼はまるで壊れた機械の修理を依頼するように、静かだった。
午後。
庭園を歩くロランの隣で、リーナが一本の木を指差した。
「主様、覚えてる? ここで初めて会ったんだよ」
ロランは、その木を見上げた。
複雑な枝を広げる、灰色の巨木。
「私が『迷子ですか?』って声をかけたら、主様、ちょっと困ったみたいに笑って……『考え事をしているだけです』って返したんだから」
リーナは、愛おしそうに笑う。
だが、ロランの脳内データベースには、該当する映像は一つも存在しない。
「……すまない。覚えていないんだ」
「……」
リーナの笑顔が、凍りついたように止まった。
その瞳に溜まった熱い液体が、頬を伝って落ちる。
「大丈夫! 私が、全部覚えてるから! 何度でも、話してあげる!」
リーナは、ロランの手を痛いほど強く握りしめた。
「だから……私のことだけは、忘れないで……」
「……忘れない」
ロランは答えた。
だが、その「約束」を維持するためのメモリが、いつまで残っているのか。
彼自身にも、もう予測がつかなかった。
夜。
ベッドに横たわり、ロランは今日という日を「記録」する。
『ゾフィア:外部装置の開発を開始』
『セシリア:記憶の番人を自称』
『リーナ:何度でも話すと約束』
壁に新しいメモを貼り、彼は重い瞼を閉じた。
一秒ごとに、大切な何かが指の間からこぼれ落ちていく。
(ここは……どこだったか)
意識が沈む直前、また一つ、街の名前が消えかかった。
ロランは、必死に壁のメモを探る。
『ここは、王都ルミナス』
(ああ……そうだ。まだ、覚えている)
明日、目を覚ました時。
自分は何者として、この世界を見るのだろうか。
灰色の静寂の中で。
ロランはただ、次のパージが来るのを待っていた。




