第81話:セシリアの追跡
教国軍が王都から撤退して、三日が経過した。
深夜。
静寂に包まれた王宮の一室で、セシリアは「視て」いた。
彼女の瞳に光はない。
だが、その意識には世界を満たす「魔力の奔流」が鮮やかに映し出されている。
王都を流れる、穏やかな白や青の輝き。
しかし――その中に、不吉な澱が混じっていた。
粘りつくような、濃い紫。
傲慢なまでの支配を象徴する、教国の魔力だ。
(追手……。もう、ここまで……)
教皇イノセントの敗北から、わずか三日。
教国は、裏切り者となった聖女を、決して許しはしない。
セシリアは静かに立ち上がった。
手慣れた動作で、質素な法衣と聖典を袋に詰めていく。
(行かなければ。私がここにいれば、あの人まで……)
その時、扉が控えめに叩かれた。
「セシリアさん、入ってもいい?」
リーナの声だった。
セシリアが扉を開けると、そこには狼族特有の鋭い感覚で異変を察知したのか、不安げな表情のリーナが立っていた。
「……荷物、まとめてるの?」
「ええ。教国の刺客が、すぐそこまで来ています」
「刺客……!?」
リーナの顔から血の気が引く。
「今夜、来るでしょう。どろりと濁った、濃い紫の魔力が見える。あの方たちが、私を殺しに来るんです」
震える声で告げるセシリアの肩を、リーナは強く掴んだ。
「主様に、すぐに知らせるわ!」
「待って、リーナさん!」
セシリアがその腕を制する。
「ロラン様を、これ以上巻き込めない。これは、私が教国を裏切った報い……私一人で、決着をつけるべきことなんです」
「そんなの……そんなの、仲間じゃないよ!」
リーナの声が夜の廊下に響く。
「仲間は、助け合うためにいるの。セシリアさんは、もう一人じゃないんだから!」
セシリアの視界が、にじんだ。
魔力の色ではない、熱い体温が瞳から溢れそうになる。
「ありがとう……。でも――」
刹那。
窓が轟音と共に砕け散った。
夜風と共に飛び込んできたのは、闇に溶ける黒い法衣を纏った男。
その手に握られた短剣が、月の光を跳ね返して鈍く輝く。
「聖女セシリア。教国の裏切り者に、神の裁きを」
低く、冷酷な宣告。
刺客が地を蹴り、短剣を振り下ろす。
だが、それよりも早く、銀狼の血を引く少女が動いた。
「させないっ……!」
風を切り裂くような速度。
リーナは刺客の手首を掴むと、そのまま壁へと叩きつけた。
「リーナ、さん!?」
「逃げて、セシリアさん! 私は主様を呼んでくるから!」
リーナは廊下へ飛び出し、叫び声を上げる。
だが、壁に叩きつけられた刺客は、即座に体勢を立て直していた。
常人離れした復帰速度。教国の秘術による強化個体か。
刺客の狙いは、盲目の聖女一点。
セシリアには相手の魔力が見える。だが、それを回避する身体能力はない。
(ここまで、なのですね……)
迫りくる、死の気配。
だが、その瞬間――。
扉が蹴破られ、一人の男が踏み込んできた。
無機質な灰色の視界。
ロランは一瞬で、室内の状況を演算によって「処理」する。
「『タクティカル・ビュー(TV)』、起動」
世界が数式へと分解される。
刺客の重心、筋肉の弛緩、床に転がった水差しの位置。
『刺客座標:確認。接近速度:5.2m/s。迎撃まで、0.44秒』
ロランは、無造作に床の水差しを蹴り飛ばした。
回転しながら滑った磁器が、刺客の足元に吸い込まれる。
「がっ……!?」
足を取られ、刺客の姿勢がわずかに崩れた。
その僅かな隙を、ロランは逃さない。
近くにあった椅子を掴み、計算された最小限の軌道で投げつける。
鈍い打撃音と共に、刺客の顔面に椅子が直撃した。
糸が切れた人形のように、男が床に沈む。
「セシリアさん、怪我は?」
ロランは彼女のもとへ歩み寄った。
「ロラン、様……。申し訳ありません、私のせいで……」
「……」
ロランは答えない。
倒れた刺客を冷めた目で見下ろす。
「リーナ、ガルドとハンスを。こいつを地下牢へ。尋問は後で行う」
「分かったわ!」
数分後、駆けつけた男たちによって刺客が運び出される。
静まり返った部屋で、セシリアはうなだれていた。
「私は……教国を裏切りました。真実を暴いた代償を、払わなければならないんです。だから、私はここを出て――」
「ここにいてください」
ロランの声は、淡々としていた。
「あなたは、僕たちの仲間だ。教国が何を企もうと、関係ない」
「……あ……」
セシリアの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「ロラン様……。私、私は……」
ロランは、震える彼女の手を握った。
(……温かい)
今の彼に分かるのは、色彩ではなく「温度」だけだ。
人間としての確かな熱量。
「大丈夫だ。僕たちが、守る」
その言葉を口にした瞬間。
ロランの脳を、焼きごてを押し当てられたような激痛が貫いた。
脳内温度が、一気に跳ね上がる。
『脳内温度:39.2℃』
『警告:記憶領域への過負荷を確認』
『演算領域確保のため、非重要データのパージを開始します』
視界に明滅するシステムメッセージを、ロランは無機質に見つめた。
(パージ……? 何が、消える……?)
『対象:幼少期の記憶、固有名詞、感情的結びつき』
『推定削減量:15%』
(母さんの、顔……。故郷の……)
「主様!? 顔色が悪いよ!」
リーナの叫びが遠くに聞こえる。
抗う術はない。
灼熱する脳の中で、大切な「何か」が、光の粒子となって霧散していく。
『記憶破棄:完了』
『対象:エレナ・フォン・アシュベルに関する全データ。削除を終了しました』
(……エレナ?)
ロランはその名に、かすかな既視感を覚えた。
だが、それが誰なのか、自分にとってどういう存在だったのか。
検索をかけても、脳内のライブラリは「該当なし」を返すのみ。
「……大丈夫だ。少し、疲れただけだ」
ロランは、冷めた声で呟いた。
もう、かつて自分を慈しんでくれた女性の顔も、声も、名前さえも。
彼にとっては、意味を持たない「欠損したデータ」に過ぎなかった。
翌朝。
王宮の大広間に、アルベルトを筆頭とした主要メンバーが集結していた。
「昨夜、教国の刺客が現れた。狙いはセシリアだ」
アルベルトの鋭い声が響く。
「教国は、まだ諦めていない。我々は総力を挙げて彼女を守る必要がある」
「アルベルト様……。ですが、私がいれば皆様を危険に……」
「そんなことは気にするな。君は我々の仲間だ。見捨てる選択肢など、この国にはない」
セシリアが感極まり、涙を拭う。
その光景を、ロランは端で眺めていた。
灰色の、色彩のない世界。
何も、感じない。
仲間を守るという「正解」は導き出せる。
だが、そこにあるはずの熱い感情が、どこにも見当たらない。
(仲間……)
ロランは、目の前の男女を観察した。
名前が、すぐに出てこない。
彼は机の下で、自分専用のメモ帳をめくった。
『アルベルト:王。親友。守るべき対象』
『リーナ:侍女。狼族。身の回りの世話』
「……ロラン、君の意見を聞かせてくれ」
アルベルトが問いかける。
ロランは一拍置いて、メモの内容を反芻してから答えた。
「セシリアさんは、教国の内部情報を持つ貴重な資産です。戦略的観点から、保護を継続すべきだと判断します」
極めて論理的で、血の通わない言葉。
アルベルトの表情が、わずかに歪む。
「……そうか。分かった」
会議を終え、自室に戻ったロランは、壁一面に貼られたメモを見つめた。
『母の名前:エレナ?』
『誰だっけ?』
『大切な人だった気がする』
昨日自分が書いたはずの文字。
だが、そこに込められた感情は、もう今のロランには理解できない。
(エレナ……)
名前をなぞっても、心は凪いだままだ。
ただ、胸の奥に、言語化できない「虚無」の穴だけが広がっている。
(ごめんなさい……。忘れてしまった……)
ロランは、新しいメモにペンを走らせる。
『セシリア:協力者。守ることに決定』
『仲間:アルベルト、リーナ、ガルド……』
一文字ずつ、忘却を食い止めるように書き記していく。
たとえ、その「仲間」という言葉が、彼にとって単なる「演算上の変数」に成り下がったとしても。




