第78話:確率論的ペテン
午後2時5分。
空から、無数の鉛色が降り注いでいた。
中央広場は、静寂に塗り潰されている。
民衆は――叩きつける雨に打たれながら、ただ、石像のように立ち尽くしていた。
ロランが告げた「神託」が、的中した。
異端者が口にした数式が、現実を書き換えたのだ。
「本当に……降った……」
「異端者が……天を動かしたのか……?」
困惑。動揺。
そして――教皇イノセントが掲げる「神」への、微かな疑念。
人々の囁きは、雨音に混じって不穏な振動を広げていく。
教皇イノセントは、雨の中に立ち続けていた。
高輝度の法衣が水を含み、重く、鈍い光を放っている。
だが、その貌は依然として穏やかだった。
「皆様。落ち着いてください」
教皇の声が、雨の帳を透かして響く。
微かな「言霊」の介入。
民衆のささくれ立った心が、強引に凪へと引き戻される。
「雨が降ったからといって、それが神の意志であるとは限りません」
教皇は、ロランを射貫くように見つめた。
「天候とは移ろいやすいもの。……ただの偶然を、奇跡と履き違えてはなりません」
その言葉に、一部の民衆がハッとしたように頷く。
そうだ。ただの偶然だ。異端者の言葉が、神に勝るはずがない――。
だが。
ロランが一歩、前へ踏み出した。
煤と鉛の視界。叩きつける雨の「冷たさ」だけが、彼を現実に繋ぎ止める。
「教皇イノセント。……偶然ではありません」
ロランの声は、雨音さえも切り裂くほどに鋭利だった。
「これは――統計学的に導き出された、必然の結果です」
統計学。その未知の言葉に、広場が再びざわめきに揺れる。
「皆さん。神託とは、何だと思いますか?」
民衆は答えられない。
神の声、未来を視る力……。彼らの脳裏にある「幻想」を、ロランの言葉が解体していく。
「違います。……神託とは、情報と統計学の産物に過ぎません」
教皇の瞳が、僅かに細められた。
「教国の聖女たちは、大陸全土に派遣されている。彼女たちの真の役割は、慈悲ではなく『情報の収集』だ。政治、経済、軍事、そして天候。……すべての変数が、教国へと吸い上げられる」
ロランは雨に濡れた髪を払い、無機質な銀色の瞳で群衆を射抜いた。
「教国の地下――『禁書庫』では、数学者たちがその情報を分析している。確率論、ベイズ推定、回帰分析。……最も起こりやすい未来を算出し、それを『神の言葉』として再配布しているだけだ」
民衆の間に、衝撃が走る。
神託が、計算。奇跡が、数字。
彼らが縋ってきた聖なる言葉の正体が、ただの「事務処理」であると突きつけられたのだ。
「例えば、この雨だ」
ロランが天を指差す。
「私は過去三日間の気圧、湿度、風向のデータを演算した。……その結果、降水確率81%という確証を得た。神の声など聞いていない。……ただの、算数だ」
「待ちなさい」
教皇が遮る。その全身から、圧倒的な圧力が立ち昇った。
「ロラン・フォン・アシュベル。貴方は神を冒涜しすぎている。……『神の声は、計算ではない』」
強力な「言霊」。
広場全体が物理的な重圧に押し潰されそうになる。
だが、ロランは引かなかった。
「では、証明しましょう。……貴方の『神託』が、いかに稚拙なペテンであるかを」
「……何だと?」
「皆さん。教国の神託は、いつも曖昧ではありませんでしたか?」
ロランの指摘に、民衆が記憶を辿る。
確かに……。「試練が訪れる」「光が差す」。どれも解釈次第でどうとでも取れる言葉だ。
「これを心理学では『バーナム効果』と呼ぶ。曖昧な表現を使い、受け手に『自分に当てはまる』と思い込ませるトリックだ。どんな不運が起きても『試練』と呼び、幸運があれば『祝福』と呼ぶ。……外れるはずがない」
教皇の貌から、余裕が削ぎ落とされていく。
「さらに、神託は常に『短期的』だ。数日後、長くても一ヶ月。……なぜか? 統計学的な予測には、時間的な限界があるからだ。遠い未来は不確実性が高すぎて、計算が合わなくなる」
ロランの論理は、止まらない。
「そして神託が外れたとき、教国は決まってこう言う。『民の信仰が足りなかった』『神の意志が変わった』。……外れてもなお、自分たちの非を認めず、責任を民に転嫁する。――これが、貴様らの正体だ。確率論的な、ペテン師め」
広場が、絶句した。
雨音だけが、虚しく響く。
民衆の瞳に、明確な「火」が灯った。
それは信仰の熱ではない。騙されていた者たちの、冷たい怒りだ。
「……『真実は、疑ってはならない』」
教皇が絞り出すように呪言を放つ。
だが、その効果は薄かった。
一度芽生えた「疑念」という毒は、もはや言霊という麻薬では抑えきれない。
「これ以上は、時間の無駄のようです」
教皇は濡れた法衣を翻した。その背中は、先ほどまでの神々しさを失い、ひどく小さく見えた。
「神の真実は、また別の機会に。……今日はこれで引き上げます」
教皇が去り、民衆もまた、重い足取りで散っていく。
一人、広場に残されたロラン。
その瞬間。
脳内を、焼けるような熱が駆け抜けた。
『脳内温度:38.6℃』
『警告:記憶領域への深刻な負荷を検知。人格データの維持を優先し、直近のキャッシュを破棄します』
(……が、あ……っ)
膝をつく。
思考が、不自然に断ち切られた。
(俺は……何を……。何を、していた?)
雨が降っている。
誰かと、話していたような気がする。
だが、その内容が、相手の貌が、霧のように消えていく。
「ロラン様!」
温かい「熱」が、ロランの手を包んだ。
セシリアだ。
「……セシリア。俺は……」
「教皇との論戦に勝ったのです、貴方は。……神託の嘘を暴き、この国の目を覚まさせた」
セシリアの声は震えていた。
ロランは、その言葉をただの「データ」として受け取った。
勝利の喜びも、達成感もない。
ただ、冷たい雨の感触と、セシリアの手の熱だけが、彼を「人間」の側に繋ぎ止めていた。
「……そうか。勝ったのか、俺は」
その夜。
ロランは自室で、震える指をペンで走らせていた。
『今日、教皇に勝った』
『神託は統計学。バーナム効果。短期予測』
『次:民衆の洗脳を完全に解く』
壁に貼られた、見覚えのない筆跡のメモ。
それを何度も読み返し、自分が何をなすべきかを確認する。
窓の外では、まだ灰色の雨が降り続いていた。
温度だけを感じる、冷たい水。
(……雨が、降ったのか)
それが、自分の功績であることも。
それと引き換えに、自分が何を失ったのかも。
ロランはもう、思い出せずにいた。




