第77話:論理vs信仰
午前10時。
中央広場を支配していたのは、光を遮る重苦しい鉛色の塊だった。
空を埋め尽くす厚い雲。
だが――雨は、まだ降らない。
ロランは広場の中央、敵意の渦に独り立っていた。
無彩色の世界。
自分を取り囲む数千の民衆の瞳には、尖った石のような疑念が宿っている。
「本当に、雨なんて降るのか……?」
「もう4時間も待たされているんだぞ」
「異端者のホラに決まっている。教皇様を冒涜した罰だ」
罵声を背景に、ロランは空を仰いだ。
網膜の裏側で、タクティカル・ビューが無機質な数値を明滅させている。
『気圧:997 hPa(低下継続)』
『湿度:82%(飽和点へ接近)』
『降水確率:81%(上昇中)』
ロランは、小さく頷いた。
すべては数式通り。
大気の震えも、湿った風の熱も、彼の演算を裏切ることはない。
その時、視界の端で「不自然な白」が動いた。
教皇イノセントが、慈悲深い微笑みを湛えて歩み寄ってくる。
民衆は波が引くように道を開け、その場に跪いた。
「教皇様……」
「主の御名のもとに……」
イノセントはロランの前に立ち、穏やかに問いかけた。
「ロラン・フォン・アシュベル。……貴方はまだ、諦めませんか」
「諦める理由がありません。統計学的に、雨が降る確率は81%です」
教皇は、その答えを愛おしむように目を細めた。
「統計学。確率。……貴方は世界を数字という骸で理解しようとする。それは――」
教皇の瞳が、高輝度の白光を放つ。
「あまりに、愚かなことです」
言霊の重圧が広場を圧した。
民衆が、教皇の「正しさ」を補強するように唱和する。
「教皇イノセント。……貴方は『神の意志』と呼びますが」
ロランの瞳が、鋭く光を撥ね返した。
「貴方の放つ『神託』もまた、中身は統計学そのものです。聖女たちが足で稼いだ情報を、禁書庫で処理しているに過ぎない。つまり――」
一歩、ロランが踏み出す。
「貴方の神も、俺の数式も、同じ場所から生まれた双子のようなものだ」
広場が凍りついた。
教皇は、ロランを哀れむように首を振った。
「貴方は賢すぎる。……だが、賢すぎることは不幸なのです」
「不幸……?」
「ええ。人は考えすぎれば、疑い、悩み、恐れる。それは幸福ではありません」
教皇は民衆を見渡し、その声を朗々と響かせた。
「だから神は、人に『信じる心』を与えた。疑わず、考えず、ただ身を委ねる。それこそが、真の安寧なのです」
民衆から、啜り泣くような声が漏れる。
思考を放棄し、誰かに魂を預ける心地よさ。
それは、教皇が提供する最も甘美な毒だった。
「ですが――」
ロランの声が、その毒を切り裂いた。
「考える力を奪うのは、支配者にとって都合が良いからだ。貴方は民に『家畜』であれと言っている。それが幸福だと偽って」
教皇の顔から、初めて微笑みが消えた。
穏やかな仮面の裏から、支配者の剥き出しの敵意が覗く。
「ロラン・フォン・アシュベル。……貴方は、あまりに危険だ」
「……お互い様ですよ、教皇」
感情を剥ぎ取られたロランの視界が、一瞬だけ揺らぐ。
脳内温度が、上昇を続けている。
午後1時50分。
あと10分。
空は依然として重く、雨の気配はない。
民衆の間に、嘲笑が広がり始める。
「まだ降らないじゃないか」
「やっぱり異端者の嘘だったんだ!」
午後2時。
静寂。
教皇イノセントが、ロランを見下ろした。
「時間です。……貴方の偽りの神託は、外れました」
「いいえ。……統計は、嘘をつかない」
その瞬間。
ロランの頬に、冷徹な「一滴」が落ちた。
熱を帯びた肌を、冷たい衝撃が叩く。
一滴。二滴。
次の刹那、空が割れたかのような豪雨が広場を飲み込んだ。
ザアアアア――。
石畳を叩く激しい雨音。
民衆が、驚愕と共に天を仰ぐ。
「雨だ……!」
「本当に降った! ロラン様の言った通りに!」
教皇イノセントの貌が、驚愕に歪んだ。
神の意志でも、教皇の呪言でもなく、ただの「計算」が天を動かしたのだ。
「これは……統計学です」
雨の中で、ロランの声が響く。
「神でも、奇跡でもない。……ただの、数学です」
教皇の瞳に、激しい焦燥が走った。
絶対的な「信じる心」に、論理という名のヒビが入った瞬間だった。
「貴方は……本当に、消さねばならない火種だ」
教皇の声は、激しい雨音に消えていく。
ロランは教皇を見据えたまま、勝利の余韻に浸ることもなく立ち尽くしていた。
喜びはない。怒りもない。
ただ――。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
(……あれ?)
思考に、穴が開く。
自分はなぜ、雨の中で立っているのか。
目の前の白い老人は、誰だったか。
勝利の代償。
高負荷な演算の果てに、また一つの「大切な何か」が脳から削り取られた。
「ロラン様」
雨の中、セシリアが駆け寄ってくる。
その声に導かれ、ロランは辛うじて思考の糸を繋ぎ止めた。
「……ああ。……雨が、降ったな」
声に、感情が宿っていない。
ただの事実を確認する、機械のそれだった。
降りしきる雨の中。
教国の権威は濡れ、ロランの人間性は、さらに一歩「無」へと近づいた。




