第76話:教皇イノセント
二日目の朝。
王都ルミナスは、不気味なほどの静寂に包まれていた。
民衆は――ロランが告げた「神託」の真偽を、固唾を飲んで見守っている。
中央広場には、まだ誰も集まっていない。
だが、路地裏や窓際から空を見上げる影は、一つや二つではなかった。
「本当に、雨が降るのか……?」
「異端者の言葉だぞ。……だが、もし当たったら」
民衆の心に、小さな「疑念」という名の楔が打ち込まれていた。
王宮の執務室。
ロランは、色彩なき資料を無機質に見つめていた。
天候データ。
風向き、湿度、気圧の推移。
タクティカル・ビューが、網膜の裏側に冷徹な演算結果を映し出す。
『降水確率:78%』
『予測時刻:明日14時前後』
『持続時間:約3時間』
ロランは、微かに頷いた。
統計学的に見て、勝利を確信できる数字だ。
だがその時、扉が激しく弾け飛ぶように開いた。
「ロラン!」
駆け込んできたアルベルトの貌は、光を失ったように蒼白だった。
「大変だ! 教国から――」
「……落ち着いてください。何がありました」
「教皇イノセントが、王都に向かっている! もうすぐそこまで来ているんだ!」
ロランの瞳が、僅かに細められた。
教皇イノセント。
教国の最高指導者にして、大陸全土を「信仰」という目に見えぬ鎖で縛り上げる男。
「到着は?」
「今日の夕刻だという。……ロラン、これはもう、一審問官の暴走じゃない」
「ええ。彼らが本気で僕を、いえ、この国を『矯正』しに来た証拠です」
ロランの声は、どこまでも平坦だった。
脳内温度が、じわりと上昇を始める。
夕刻。
王都の南門に、一つの「極光」が到着した。
眩いばかりの純白の馬車。
無数の神官たちが連なる、無垢な行列。
その中央。
一人の老人が、ゆっくりと大地へ降り立った。
教皇イノセント。
雪を欺くような高輝度の髪。眩いばかりの法衣。
穏やかな微笑みを湛えた、慈悲の権身。
民衆から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「教皇様だ!」
「教皇イノセント様が、私たちのために来てくださった!」
波が引くように、人々が膝をつく。
祈りを捧げる群衆の中を、教皇はゆっくりと、王宮へ向かって歩き始めた。
ロランは王宮の窓から、その「白」を凝視していた。
視界を焼き切るような、暴力的なまでの光量。
『警告:脅威レベル・最大』
『推奨:即座の戦術的撤退』
脳内のアラートが鳴り止まない。
だが、ロランは動かなかった。
ここで背を向ければ、この国の民の心は、永遠に教国の掌に収まることになる。
夜。
王宮の大広間にて、歓迎の式典が執り行われた。
緊張に身を固くするアルベルトの傍ら。
ロランは、無彩色の影のように控えていた。
大広間の重厚な扉が開き――。
教皇イノセントが、姿を現した。
羽毛のような足取り。春の陽だまりのような微笑。
だが、その一歩一歩が、広場の空気を物理的に塗り替えていく。
「ようこそ、教皇イノセント。レガリア王国へ」
「光栄です、アルベルト王。貴方の即位を、主もお喜びでしょう」
教皇の声が響く。
優しく、温かく……それでいて、拒絶を許さぬ圧倒的な「正しさ」。
教皇の視線が、ロランを捉えた。
「そして――貴方が、ロラン・フォン・アシュベル」
ロランは、その高輝度の瞳を見つめ返した。
「……はい。私が、ロランです」
「噂はかねがね。戦場で勝利を重ね、民を導く智慧を持つ。素晴らしいことです」
だが、教皇の微笑みが、一瞬で凍土のような冷徹さを帯びた。
「ですが――神を冒涜することは、許されません」
瞬間、世界の「重力」が変わった。
大広間に満ちていた空気が、泥のように重く、粘つく。
『未知の魔法干渉を検知』
『分類:高次精神干渉系』
(……これが、本物の「言霊」か)
イノセントが、静かに唇を動かした。
「『神の言葉は、絶対である』」
その言葉が放たれた刹那。
ロランの肉体が、激しい拒絶反応に震えた。
脳が、意識が、細胞の一つ一つが、その言葉を「真実」として受け入れろと強制してくる。
跪く民衆。彼らの瞳には、もう「思考」の欠片も残っていない。
「神の言葉は、絶対である……」
「教皇様の言葉こそが、真実なのだ……」
虚ろな唱和。
集団心理を極限まで操作し、脳に直接「疑えない事実」を刷り込む。
それは魔法という名の、精神的な去勢だった。
「ロラン・フォン・アシュベル。貴方は昨日、民に『神託』を示したそうですね」
「……雨が降ると。ただの気象予測です」
「興味深い。ですが、神託は主のみが示すもの。人間が神を模倣することは――」
教皇の声が、地底まで届くほど低く沈んだ。
「不敬。そして、反逆です」
民衆の視線が、一斉にロランへ向けられる。
先ほどまでの迷いは消え、そこには明確な「処刑者」の殺意が宿っていた。
「異端者は……反逆者は、死なねばならない……」
アルベルトが必死に前に出ようとする。
「教皇イノセント! ロランは英雄だ! この国を、僕を救った――」
「アルベルト王。貴方はまだ若く、真理を知らぬだけなのです」
イノセントが、アルベルトを哀れむように見つめた。
「『真実は、疑ってはならない』」
呪言が、アルベルトの心を縛り上げる。
王の体は激しく震え、唇を動かそうとしても、音にならない。
ロランの胸の奥で、僅かな「怒り」が火花を散らす。
だが、それすらも冷却冠の冷気と脳内温度の上昇に焼かれ、砂のように消えていく。
「ロラン・フォン・アシュベル」
教皇が、死の宣告を下した。
「明日。貴方の『神託』が外れたならば。……貴方を異端者として、この広場で処刑します」
民衆から、狂信的な歓声が上がった。
ロランは、その轟音の中で独り、空を見上げた。
(明日。……雨が降らなければ、俺は終わる)
だが、絶望する機能は、今のロランには備わっていない。
ただ、78%という数字だけを信じ、演算を続ける。
その夜。
ロランは自室の闇の中で、何度も同じメモを読み返していた。
『言霊魔法:言葉が通じない相手には無効』
だが、対策を練ろうとするたびに、思考がぷつりと途切れる。
(……あれ? 何を……考えていた?)
記憶の空白。
数秒前まで掴んでいたはずの「反撃の糸口」が、どうしても思い出せない。
(教皇。言霊。……あとの、キーワードは……?)
机の上のメモを見る。思い出す。また考える。そして、また忘れる。
ロランは、その無限に続く地獄の円環の中で、独り戦い続けていた。
扉が開く。
アルベルトが入ってきた。その瞳には、隠しきれない涙が溜まっている。
「ロラン……。君は、本当に大丈夫なのか」
「大丈夫です。……全ては、計算通りに」
無感情な声。
アルベルトがその手を握ると、ロランの手は驚くほど熱く、そして硬質だった。
翌朝。
王都の空は、厚い雲に覆われていた。
民衆は、中央広場を埋め尽くしている。
教皇イノセントが、祭壇の上に穏やかな顔で立っていた。
ロランもまた、広場へ現れた。
灰色の世界。
敵意に満ちた数千の瞳。
「ロラン・フォン・アシュベル。さあ、見せてください。貴方の『神託』を」
ロランは空を見上げる。
時刻は午前10時。
予報時刻まで、あと4時間。
雨が降れば、教国をハッキングできる。
雨が降らなければ、死。
ロランは、消えゆく記憶の残滓を掻き集め、ただ静かに、その時を待ち始めた。




