第74話:統計学的ハッキング
その夜。
ロランは、王宮の執務室に独り籠っていた。
机の上に積み上げられたのは、教国に関する膨大な資料。
過去の神託の記録。聖女の派遣先リスト。各国の政情報告書。
それらはすべて、ロランの網膜には墨汁と煤で塗り潰された「無彩色の紙束」として映っている。
色彩はない。
だが、情報の輪郭だけは、以前よりも鋭利に脳へ突き刺さっていた。
(神託……)
ロランは、その概念を解体し始める。
脳内へ深く潜り、タクティカル・ビューを強制駆動させる。
視界のコントラストが急激に反転した。
光の粒子が情報の奔流へと姿を変え、資料の海を浸食していく。
『神託記録:解析開始』
『過去百件の神託をパターン抽出中……』
ロランの瞳が、凄まじい速度で文字をなぞる。
一見、神の気まぐれに見えた言葉の断片。
だが、時系列を並べ替え、変数を抽出した瞬間――その「醜悪な正体」が浮き彫りになった。
(これは……統計学だ)
例えば、一年前。
『レガリア王国にて干ばつが起こる』という神託があった。
その神託の一ヶ月前。
教国の聖女が各地を巡回し、農民たちの「嘆き」を収集していた。
「今年は雨が少ない」
「土の乾きが異常だ」
つまり、神託とは予言ではない。
聖女たちが足で稼いだ「現地の一次情報」を吸い上げ、確実性の高い未来を選別して出力しているだけの、泥臭い情報戦の結果だ。
(聖女は……慈悲の天使などではない。ただのスパイだ)
さらに別の記録を洗う。
『バルムンク帝国が侵攻する』という神託。
その二週間前、帝国の宮廷に潜り込んでいた聖女が、皇帝側近の「野心」を既に報告していた。
(仕組みは分かった。……神も奇跡も、そこには存在しない)
ロランの脳が、さらなる演算を要求する。
こめかみを焼くような熱。
冷却冠が激しく結露し、冷たい水滴が頬を伝う。
『脳内温度:38.1℃』
『警告:記憶領域の深刻なリソース不足。不要データの破棄を継続』
ロランはその警告を、思考の彼方へ蹴り飛ばした。
今、手を止めるわけにはいかない。
彼はタクティカル・ビューの視界の中で、神託の正体を暴くための数式を導き出した。
それは、信仰という名の幻想を撃ち抜くための弾丸だ。
(収集する情報が多いほど、短期的な予測であるほど、神託の『精度』は上がる……。ただの数学だ)
その時、重厚な扉がノックされた。
「ロラン、入るぞ」
アルベルトだった。
王の顔には、隠しようのない疲労が影を落としている。
「……まだ起きていたのか」
「ええ。少し、調べ物を」
ロランは資料から目を離さずに答えた。
アルベルトはロランの隣に腰を下ろし、吐き捨てるように呟いた。
「民は、神託を信じ切っている。僕の言葉よりも、あの聖女の声を……」
「わかっています。……だから、破壊します」
ロランの言葉に、アルベルトが目を見開いた。
「破壊……だと?」
「ええ。神託は奇跡ではありません。統計学と情報操作の産物です。……その偽りの化けの皮を剥ぎ取れば、教国の権威は地に落ちる」
ロランの瞳が、暗がりの中で銀色に光る。
「教国の情報収集網を完全に解析し、偽造データを流し込む。……三日。三日だけ時間を稼いでください」
「……分かった。三日間、僕が何としても民を繋ぎ止める。君を信じるよ」
アルベルトはロランの肩に重い手を置き、去っていった。
その手の「熱」だけが、ロランの脳に刻まれる。
再び、静寂。
だが、その瞬間――不自然な断絶が訪れた。
(……あれ?)
ロランは瞬きをする。
手に持っていたペン。広げられた資料。
それらをなぜ自分が持っているのか、一瞬の「空白」が脳を支配した。
(何を……調べていた……?)
記憶の、完全な欠落。
ロランは震える手で机の引き出しを開けた。
そこには、自分自身へ宛てた「遺言」のようなメモが散乱している。
『神託の正体:統計学』
『弱点:情報網の遮断』
それを読み、辛うじて思考の糸を繋ぎ止める。
(そうだ……遮断だ。聖女たちの報告を止める必要がある)
聖女たちの魔法通信。それを物理的に止める手段を模索する。
脳裏に、ある人物の「存在」が浮かんだ。
エレン。
ローウェル商会の令嬢。情報と物流の支配者。
(エレンなら……できる。彼女に、聖女の追跡を……)
ロランは震える筆致で、エレンへの依頼書を書き殴った。
だが、封筒を閉じた瞬間、またノイズが走る。
(エレン……。誰だ、それは)
名前は分かる。役割も分かる。
だが、彼女とどんな日々を過ごし、どのような信頼を築いてきたのか。
その思い出が、砂の城が崩れるように消えていく。
(思い出せない。……顔も、声も)
絶望に沈む暇などなかった。
再びノックの音が響く。
「ロラン様」
入ってきたのは、盲目の聖女――セシリアだった。
「夜分に、申し訳ございません。……お話があります」
彼女は迷いのない足取りでロランの前に座った。
そして、囁くような声で教国の深部を語り始める。
「聖都エリュシオン。大聖堂エル=ナフの地下に『禁書庫』があります。……大陸中の情報がそこに集い、枢機卿たちが神託を捏造り出しているのです」
ロランは確信した。
やはり、神託は数学という名の檻だ。
「なぜ、俺に教える」
「……私は、もう教国の犬でいたくない。……ただ、それだけですわ」
セシリアが、ロランの手にそっと触れた。
温かい。
だが、その温もりすら、ロランの壊れゆく脳には「ノイズ」として処理され始めていた。
「ロラン様。貴方の記憶が……消え去ろうとしている。わたくしには見えます」
「……大丈夫だ。……まだ、やれる」
セシリアが去った後、ロランは新しいメモを書き残した。
『禁書庫:大聖堂エル=ナフの地下』
『破壊すれば、神託は止まる』
何度も、何度もその文字をなぞる。
忘れないように。自分が、ロラン・フォン・アシュベルという人間であるうちに。
ロランは、消えゆく己の魂を燃料に、神を殺すための演算を続けた。




