第8話:無能な指揮官
帝国軍の騎兵隊が撤退してから、一時間。 アイギス砦には、つかの間の静寂が訪れていた。
だが、それは嵐の前の静けさに過ぎない。 ロランは城壁の上から、北の地平線を凝視していた。
帝国軍の野営地から、数筋の黒煙が立ち上っている。 炊事の煙だ。
彼らはまだ、撤退など考えていない。 牙を研ぎながら、次の「喰い時」を窺っているのだ。
「先生」 ハンスが、疲労の濃い顔で近づいてきた。 「さっきの戦い、本当にお見事でした。あんなわずかな犠牲で帝国の騎兵を退けられるなんて、夢にも思わなかった」
「いえ、まだ終わってはいませんよ」 ロランは視線を逸らさず、冷徹に告げた。 「あれはただの偵察です。敵は僕たちの戦術…… その底を見極めようとしている」
「て、偵察……? あの規模でか?」
「ええ。本当の地獄は、これからです」 ロランの言葉に、ハンスの顔がひきつった。
その時、砦の中庭から耳障りな怒号が響いた。
「貴様ら! なぜ私の許可なく勝手に動いたッ!」
ギルマー男爵だ。 顔を真っ赤に茹で上げ、ハンスを指差して喚き散らしている。
「私の命令を無視して、勝手に槍の壁を作っただと? 誰の許可を得てそんな真似をした!」
「しかし男爵。あのままでは騎兵に蹂躙されていました」 ハンスが必死に説明するが、ギルマーは聞く耳を持たない。
「黙れッ!」 ギルマーは杖で激しく地面を叩いた。 「私は突撃を命じたはずだ! 城門を開き、全軍で打って出ろとな!」
「ですが、それでは全滅します。敵は数で圧倒しているんです。 突撃など自殺行為だ」
「臆病者めがッ!」 ギルマーは唾を飛ばしながら叫ぶ。 「貴様ら下賤な駒は、命令に従えばいいのだ! 余計なことは考えるな! 死を恐れるなど兵士の面汚しだと思え!」
周囲の兵士たちが、冷めた目でギルマーを見ていた。 この男は、何もわかっていない。 戦術のイロハも、ここで戦う男たちの命の重さも。
「男爵」 ロランが、静かに一歩前に出た。
「次の戦い、僕に指揮を任せていただけませんか」
「何だと? …… 貴様、誰だ」 ギルマーが、不審げにロランを睨む。
「ロラン・フォン・アシュベルです」
「アシュベル……?」 ギルマーの瞳が、わずかに動揺に揺れた。 アシュベル公爵家の名は、この王国では絶対的な権威を持つ。
「…… だが、貴様は家を追われたのだろう? ならばただの『零級者』ではないか」
「ええ、そうです。ですが――」 ロランは逃げ場のない視線で、ギルマーの目を射抜いた。 「僕なら、この砦を確実に守りきれます」
「ふざけるなッ!」 ギルマーは再び顔を真っ赤にした。 「魔力も持たぬ小僧が、何を偉そうに! 下がれ、失せろ!」
ロランはそれ以上、何も言わなかった。 この無能な男と議論を重ねること自体、時間の無駄だと演算を終えたからだ。
夕刻。 ロランはアルベルトと共に、再び城壁に立っていた。 空には厚い雲が垂れ込め、嫌な湿り気を帯びた風が吹き抜ける。
「あの男爵、本当に救いようがないね」 アルベルトが呆れたように呟く。 「あんな指揮官の下では、みんな犬死にだ」
「ええ。ですが、そうはさせません」 ロランは北の空を見上げた。 「アルベルト様。一つ、お願いがあります」
「なんだい?」
「次の戦いが始まったら、兵士たちに『僕の指示に従え』と伝えてください」
アルベルトは一瞬驚いたが、すぐに力強く頷いた。 「わかった。でも、ギルマーが黙っていないよ?」
「構いません。兵士の信頼さえあればいい」 ロランは、薄く微笑んだ。 「あの男爵は…… いずれ自滅します」
その夜。 ロランは砦の食堂へと足を運んだ。 そこには、一際大きな背中があった。 ガルドだ。
「おお、軍師様じゃねえか!」 ガルドは豪快に笑いながら、ロランを迎え入れた。 「俺はガルド。この砦の腹を満たすのが仕事だ」
「料理番、ですか」
「ああ。人を殺めるより、飯を作る方が性に合っててな」 ガルドが大きな鍋の蓋を開けると、食欲をそそる香りが広がった。 「さあ食え。今夜は特別だ、肉入りのシチューだぞ」
差し出された椀を受け取り、一口運ぶ。 …… 美味い。 粗末な具材を、手間を惜しまず煮込んだことが伝わる味だ。
「美味しいです」 ロランの率直な感想に、ガルドはクシャクシャに顔を崩して笑った。
「そうか! 嬉しいねえ!」 ガルドはロランの隣に腰を下ろし、ふと遠い目をした。 「なあ先生。俺たち…… 本当に生き延びられるのか?」
「…… わかりません」 ロランは、正直に答えた。 「ですが、最善は尽くします。そのための『解』は持っています」
「そうか……」 ガルドは空を見上げた。 「俺、昔は傭兵だったんだ。戦場で多くの仲間を失って…… 心が折れちまった。 人を守れない剣なんて、もう振りたくなかった」
「それで、料理人に?」
「ああ。人を殺すより、生かす方がいい。 …… だから先生、頼む。 ここの連中を、生かしてやってくれ」
ロランはガルドの瞳の奥にある、真摯な祈りを受け止めた。 「…… 約束します」
翌朝。 予報通り、冷たい雨が降り始めた。 城壁を濡らし、地面をドロドロの泥濘へと変えていく。
そして――北の霞の中から、再び帝国軍が姿を現した。 数は昨日よりも少ない。 およそ五百。 だが、その隊列は異様だった。
全員が巨大な盾を掲げ、隙間なく並んでいる。
「あれは……『亀甲陣』か」 ハンスが顔色を失った。 「盾で全身を覆い、矢を無効化しながら接近する戦術だ……!」
「ええ。まともに矢を射っても無駄でしょうね」 ロランは冷静に、タクティカル・ビューを起動した。 青いグリッドが雨の降る戦場を覆う。
敵の重量、雨による摩擦係数の低下、地面の泥濘化――。
「ハンスさん、油を用意してください」
「油? ですがこの雨じゃ、火はつきませんよ!」
「火は使いません。敵が接近したら、その盾の上に油を撒くんです」
「盾に、油……?」
「ええ。そして――」 ロランは、城壁の下の泥沼を指差した。 「雨で濡れた盾に油をさせば、表面は極限まで滑りやすくなる。雨で視界も悪い彼らは、足元への注意が疎かになるでしょう」
ハンスが目を見開いた。 「なるほど…… 盾を持ったまま、足を滑らせるのか!」
「重い大盾を持って転べば、この泥の中では容易に起き上がれません。そこを叩く」
帝国軍が射程内に踏み込んだ。 カチリ、カチリと盾が触れ合う音が不気味に響く。
「油を撒けッ!!」 ロランの号令で、兵士たちが一斉に壺を投げ落とした。 盾の上で割れた壺から、どろりとした油が雨水と共に広がる。
その瞬間。 「うわっ!?」 先頭の兵士が、不自然に足を滑らせて転倒した。 重い盾が自らの体にのしかかり、ドロドロの泥に沈む。
後続も回避できず、滑る盾に足を取られて次々と折り重なっていく。
「今だ! 投石開始!」 ロランの指示で、巨大な石が降り注ぐ。 転んで起き上がれない敵兵にとって、それは回避不能の死の雨だった。
「やった! 崩したぞッ!」 城壁に歓声が沸き起こった。
だが、その歓声を切り裂く声がした。
「何をしている! 私の許可なく勝手に動くなッ!」 ギルマー男爵が、城壁に駆け上がってきた。
「城門を開けろ! 今こそ突撃し、敵を殲滅する好機だ!」
「男爵、待ってください! 罠の可能性があります!」 ハンスが制止するが、ギルマーは狂ったように叫ぶ。
「黙れ! 私の命令が聞けぬのか! 城門を開けろと言っているんだッ!」
ギルマーの暴挙により、重い城門が開き始めた。 兵士たちが困惑し、足を止める。
「全軍、突撃ィィッ!」 ギルマーが剣を振り上げる。
だが、兵士たちは誰一人として動かない。 彼らの視線は、城壁の上のロランに注がれていた。
「貴様ら! なぜ動かぬ! 叛逆かッ!」
ギルマーが激昂した、その時だった。 城門の向こう、立ち込める霧を切り裂いて、鋭い蹄の音が響いた。
帝国軍の伏兵――重装騎兵だ。 転倒した歩兵は囮。 本命は、門が開いた瞬間に突入するこの別動隊だったのだ。
「しまった…… ッ!!」
開かれた門を目がけ、鉄の塊が突進してくる。 あと十メートル。 もう城門を閉じる時間はない。
ロランの脳が、限界を超えて加速した。 視界が真っ白に染まるほどの全力演算。 騎兵の速度、門の幅、そこにあるオブジェクト。
「ガルドさん! 門の横にある荷車を倒せ! 今すぐだッ!!」
ロランの絶叫に、ガルドが即座に反応した。 その人間離れした怪力で、巨大な荷車を無理やり横倒しにする。
凄まじい衝撃音。 門を塞ぐように倒れた荷車に、突入してきた騎兵が正面から激突した。 馬が悲鳴を上げ、騎兵が空中に投げ出される。
「今だッ! 城門を閉じろ!!」 ハンスの号令。 混乱する騎兵を押し出すように、城門が固く閉ざされた。
…… 一瞬の、静寂。 危機を脱した安堵が広がる中。
ロランの額から、どろりと熱い鼻血が流れ落ちた。 視界が霞み、激しい耳鳴りが頭を支配する。
「ロラン!」 アルベルトが必死に駆け寄り、彼を支えた。
「…… 大丈夫、です」 ロランは血を拭い、目の前の男を見た。
ギルマー男爵は、真っ青な顔で立ち尽くしていた。 自分の愚かな命令が、砦を壊滅させかけた事実。 そして、兵士たちの冷酷な視線。
「男爵」 ロランは静かに、だが拒絶の余地のない声で告げた。
「…… 次からは、僕の指示に従ってください。 死にたくなければ」
ギルマーは、何も言い返せなかった。
この瞬間。 アイギス砦の指揮権は、名実ともに「追放された軍師」へと移ったのである。




