第73話:言霊魔法との対峙
翌日。
王都ルミナスの中央広場は、再び、黒山の人だかりで埋め尽くされていた。
だが――。
漂う空気は、昨日とは根本的に異なっていた。
民衆の眼差しに宿るのは、熱狂ではない。
底冷えのするような「疑い」と、触れれば弾けるような「恐怖」だ。
広場の中央。
漆黒の法衣を風になびかせ、ヴァルガスが立っていた。
その隣には、純白の聖衣を纏ったセシリア。
灰色の世界で、極端なまでの明暗を放つ二つの影。
(……また、来たか)
ロランは王宮の窓から、その光景を俯瞰していた。
網膜の隅で、タクティカル・ビューが激しいノイズを撒き散らす。
『脅威レベル:極大』
『推奨:即座に当該エリアから退避せよ』
警告を無視し、ロランは自らの指先を見つめた。
感覚が薄い。温度すら、遠くに感じる。
「ロラン」
背後から、アルベルトが声をかけた。
「……行くのか?」
「ここで逃げれば、王国の権威は地に落ちます」
ロランは短く、無機質に答えた。
たとえ自分が、砂時計の砂が零れるように消えつつあろうとも。
彼は踵を返し、広場へと向かった。
広場に足を踏み入れた瞬間、数千の視線がロランを射抜いた。
そこに敬意はない。
向けられているのは、鋭利な刃物にも似た「敵意」だ。
ヴァルガスが、歪んだ笑みを浮かべる。
「来たか、異端者よ」
その声は、広場の隅々にまで響き渡った。
「今日こそ、その悪魔の皮を剥ぎ、正体を暴いてくれよう」
ヴァルガスは民衆へ向き直り、その両手を大仰に掲げた。
「民衆よ! 刮目せよ! 今日、主の御名において、真実の証拠を示そう!」
彼はロランに向き直り、唇を奇妙な形に歪めた。
「『神の名において、真実を語らせよ』」
――瞬間。
広場の空気が、物理的な圧力を伴って変質した。
ロランの思考に、冷たい氷の棘が突き刺さる。
『未知の魔法を検知』
『分類:精神干渉系(高次発動)』
『効果:対象の随意筋肉に対する強制介入』
(精神干渉……。これが、言霊魔法か)
ヴァルガスの指が、ロランを指し示す。
「ロラン・フォン・アシュベル! 貴様は、悪魔と契約し、その眼を得たのか!」
「いいえ」
ロランは即座に否定した。
だが――その瞬間、自らの肉体が制御を失った。
ガタガタと、膝が笑う。
指先が激しく震え、呼吸が浅く乱れる。
それは、隠しきれない動揺を晒す「嘘つき」の姿そのものだった。
民衆から、悲鳴に近いどよめきが上がった。
「震えてる……!」
「ロラン様が……あんなに動揺するなんて!」
「嘘をついている証拠だ!」
ヴァルガスが、勝利を確信したように叫ぶ。
「見よ! 主の前で偽りは通用せぬ! その身体の震えこそ、貴様の魂が汚れている証拠だ!」
ロランは、冷徹な分析を止めなかった。
脳内を走る電流。筋肉の収縮。
すべてが、自身の意志とは無関係に「演出」されている。
「ヴァルガス殿。……稚拙な、トリックですね」
「何だと……!?」
「貴方の魔法は、回答の内容など見ていない。……質問に答えるという『行為』そのものをトリガーに、身体反応を強制的に引き起こしているだけだ」
ロランの声は、震える肉体とは対照的に、どこまでも静かだった。
「精神と肉体の接続にノイズを混ぜ、反射的に震えを誘発させている。……真偽など、関係ない」
民衆がざわめく。
だが、ヴァルガスは嘲笑うように言葉を重ねた。
「詭弁を! ならば、なぜ何も言わぬときも震えるのだ!」
ヴァルガスが再び、呪言を紡ぐ。
「『神の名において、異端者を暴け』」
刹那――。
ロランの身体が、再び激しく痙攣した。
何も言わず、ただ立っているだけなのに、彼の肉体は「有罪」を叫ぶように震え続ける。
「見たか! 主の光に照らされ、悪魔が身悶えしているのだ!」
民衆の視線が、刃から「石打ちの石」へと変わる。
理屈ではない。
目の前で起きている「現象」こそが、彼らにとっての真実だった。
(……厄介だな)
ロランは思った。
論理では、信仰を上書きできない。
その時、視界が激しく明滅した。
『脳内温度:38.0℃に到達。臨界まで4.0』
『警告:リソース確保のため、短期記憶の整理を開始します』
(……っ!)
思考が、不自然に途切れる。
直前まで考えていた「ヴァルガスの魔法への対抗策」が、霧散していく。
(何を……何をしようとしていた? ヴァルガスの、名前は……。そうだ、ヴァルガス。……対策は?)
空白。
脳の一部が、物理的に削り取られたような喪失感。
「どうした、異端者よ! 恐怖で声も出ぬか!」
ヴァルガスの挑発。民衆の罵声。
アルベルトが前に出ようとするのを、ロランは片手で制した。
だが、その指先はまだ震えたままだ。
「……今日は、ここまでにしましょう」
静かに割って入ったのは、セシリアだった。
彼女がそっとヴァルガスの腕に触れると、広場を支配していた不吉な圧力が、嘘のように霧散した。
「民衆も、主の威光に気圧されています。ヴァルガス、引き際を」
「……チッ。聖女様がそう仰るなら」
ヴァルガスは不満げに法衣を翻し、民衆へ最後の宣告を下した。
「異端者を監視せよ! 神の裁きは、近い!」
民衆が波のように引いていく。
その去り際にロランへ向けられる視線は、もはや「異物」を見るそれだった。
広場に、ロランとセシリアだけが残された。
アルベルトも、リーナも、今は遠くで見守ることしかできない。
「ロラン様」
セシリアが歩み寄る。
彼女が目を開いた。白く濁った、魔力を視る瞳。
「貴方は……本当に、あの男と戦うおつもり?」
「……陛下とこの国を守る。それが俺の職務だ」
「では――」
セシリアの声が、囁くような低音に変わる。
「一つだけ、施しを。……言霊魔法は『言葉』に依存します。意味を介在させぬもの、言語を共有せぬ概念には、主の呪縛も届きません」
ロランの意識の底で、火花が散った。
(言葉を介さない……概念?)
「なぜ、それを俺に教える」
セシリアは悲しげに微笑んだ。
「私は聖女。……ですが、主の傀儡ではありたくない。ただ、それだけです」
彼女は再び目を閉じ、音もなく去っていった。
その夜。
ロランは自室で、リーナがくれた袋を握りしめていた。
中に入った布切れを見る。
『主様は、いつも考えてる。忘れないで』
……。
……感情が、動かない。
そこに記された文字は、ただの「記録」として処理される。
かつて感じたはずの愛おしさも、絆の熱も、脳の熱に焼かれて消えてしまった。
(言語を……共有しない……)
セシリアの言葉を反芻しようとする。
だが、また意識が飛ぶ。
(今、何を考えていた……?)
記憶の空白。
ロランは震える手で、ペンを取った。
消える前に。
自分が、自分でなくなる前に。
灰色の闇の中で、彼は「言葉なき反撃」の数式を書き殴り始めた。




