第72話:異端審問官ヴァルガス
翌朝。
王都ルミナスの中央広場は――かつてない不穏な静寂に支配されていた。
静寂。
それは嵐の前の、息の詰まるような凪だ。
民衆が、押し殺した呼吸のなかで一点を注視している。
広場の中央。
そこには、光を吸い込むような「闇」が立っていた。
漆黒の法衣。
全身を覆う重厚なローブ。
深いフードに隠されたその顔は、存在そのものが周囲の熱を奪い去るかのような圧倒的な威圧感を放っている。
ロランは王宮の窓から、その黒い影を凝視していた。
灰色の広場に、ぽっかりと空いた奈落の底。
(……あれは)
タクティカル・ビューが、意識の深層で警告音を鳴らす。
『危険対象検知:魔力パターン異常』
『脅威度:極めて高い』
ロランは僅かに眉をひそめた。
(教国の……「掃除屋」か)
黒い法衣の男が、ゆっくりと動いた。
フードを取り去り、その貌を衆目に晒す。
剃刀のように鋭い目。死体のように冷え切った表情。
その額には、教国の紋章が刻印されていた。
瞳を象った光輪――教国の徴。
「民衆よ!」
低く、地底から響くような重低音が広場を震わせた。
声そのものに、人心を惹きつける異質な力が宿っている。
「我が名はヴァルガス! 神聖エル=ナフ教国、異端審問官である!」
その肩書きが発せられた瞬間、広場に悲鳴にも似たどよめきが走った。
異端審問官。
信仰の名の下に、あらゆる「不浄」を焼き払う処刑執行人。
ヴァルガスは右手を天へ掲げ、芝居がかった所作で叫んだ。
「我は主の命を受け、この地に降り立った! この王都に――」
ヴァルガスの双眸が、ぎらりと不吉な光を放つ。
「主を欺く、醜悪な『異端者』が潜んでいる!」
民衆の呼吸が止まる。
「魔力なき軍師、ロラン・フォン・アシュベル!」
その名が断罪の雷となって、広場に降り注いだ。
ヴァルガスの指が、まっすぐに王宮の窓――ロランの立ち位置を指し示す。
「彼は悪魔の視線を持つ者! 神が創りし世界の摂理を演算で汚し、歪める者! このまま放置すれば、王国は混沌の炎に飲み込まれるだろう!」
民衆の間に、毒のような疑念が広まっていく。
セシリアの「奇跡」に心を奪われた彼らにとって、教国の言葉はもはや絶対の真実に等しい。
「悪魔の視線……」
「そういえば、魔力がないのにあんなに勝てるなんて不自然だ」
「ロラン様は……悪魔と契約しているのか?」
王宮の扉が激しく開かれ、アルベルトが現れた。
王の正装を纏い、剣を握る拳は怒りで白く震えている。
「ヴァルガス! 貴様、神聖なる我が国で何を口走る!」
「王よ。貴方もまた、その悪魔に魂を食らわれているのだ」
ヴァルガスは冷酷な笑みを浮かべ、民衆へと視線を戻した。
「彼の力は神の秩序に反する。この国が荒廃したのは、異端の力を招き入れた報いである!」
アルベルトが反論しようとしたが、民衆の視線がそれを阻んだ。
そこに宿るのは、敬愛ではない。
鋭い「疑い」だ。
その時。
ロランが王宮から姿を現した。
喧騒を割って、静かに広場へと降り立つ。
ロランは感情を削ぎ落とした無機質な顔で、ヴァルガスの正面に立った。
「ヴァルガス殿。貴方の言う『悪魔の視線』。……その定義を聞きましょう」
「貴様の目は世界を数式で視る。それは主の創造物への冒涜だ。異端の極みである!」
ロランは瞬き一つせず、静かに問うた。
「では、その『神』とは何ですか?」
ヴァルガスの顔が怒りに歪む。
「……貴様。主を疑うか!」
「疑うのではありません。定義を確認しているのです。全知全能であるという客観的な証拠がなければ、貴方の主張は単なる妄想、あるいは論理の飛躍に過ぎない」
群衆が絶句した。
この「聖なる空気」の中で、あまりに冷徹な論理のメス。
「見よ、民衆よ! これが神を否定する異端の正体だ!」
ヴァルガスの扇動に、民衆の敵意が爆発する。
次の瞬間、ヴァルガスが漆黒の法衣を激しく翻した。
ロランの脳内で、システムが絶叫を上げる。
『緊急:魔力吸収フィールド検知』
『周囲20メートル内の魔力を全吸収』
『警告:並列演算リソース……枯渇』
(何だと……!?)
タクティカル・ビューが起動しない。
TVは魔力を使わないはずだが、脳を強制加速させるための微小な「点火用魔力」までが、ヴァルガスの闇に吸い込まれている。
「悪魔の目を、ここで叩き潰してくれる!」
ヴァルガスが突進した。速い。
視界がスローモーションにならない。世界の予測線が見えない。
「主様!」
リーナが飛び出した。だが、ヴァルガスの無慈悲な一撃が彼女を木の葉のように弾き飛ばした。
「リーナ!」
ロランの声に、鋭い焦燥が混じる。
その隙をヴァルガスは見逃さなかった。重い打撃がロランの腹部を抉る。
「が、はっ……!」
石畳に叩きつけられる。
痛みはない。感覚は既に死んでいる。
だが、内臓が揺れる衝撃と、熱を帯びた吐血の感触が、敗北の現実を突きつけてきた。
「やめなさい」
天から降るような、静謐な声。
セシリアだ。
盲目の聖女が、その場に平穏をもたらす。
「ヴァルガス。その者の魂を救うのは、暴力ではありません」
セシリアはロランの元へ歩み寄り、白く濁った瞳で彼を「見た」。
彼女の微笑みは、慈母のように優しく、そして毒のように冷たかった。
ヴァルガスは不満げに鼻を鳴らし、広場に宣言した。
「異端者を監視せよ! 彼が悪魔の業を使えば、直ちに教国が裁きを下す!」
民衆の目は、完全に変わった。
かつての英雄を見る目ではない。恐るべき「怪物」を見る目だ。
王宮に戻った後、ロランは自室で独り、机に突っ伏していた。
(ヴァルガス……魔力吸収……)
対策を練らなければならない。
脳が高速回転を試みる。
だが――。
(……あれ?)
不自然に思考が途絶える。
(今、俺は何について……何を考えていた?)
まただ。
記憶に、穴が開いた。
(あの男の名前……。ええと、ヴァ……。ヴァルガス。そうだ、ヴァルガス)
何度も何度も、消えかける名前を脳に刻み直す。
タクティカル・ビューが使えない状況下で、記憶の代償だけが加速している。
脳が、ヴァルガスの存在を「不必要なデータ」として削除しようとしているのか。あるいは、受けた衝撃のせいか。
扉が開き、アルベルトが入ってきた。
「ロラン、どうする……! 民衆の間で、君を追放しろという声が出始めている」
「……分かっています」
ロランは顔を上げた。
その瞳は、もはや人間のそれではない。感情が完全に磨り潰された、銀色の結晶のようだった。
「ですが、今は無理です。……あの男、俺の『穴』を完全に理解している」
アルベルトの肩が、絶望に落ちる。
ロランは震える手で、リーナがくれた「思い出の品」を握りしめた。
『主様は、いつも冷静。でも、仲間のことを考えてる。忘れないで』
布切れに書かれた稚拙な文字。
それを何度もなぞりながら、ロランは消失し続ける自分を繋ぎ止める。
(忘れない……。まだ、俺は、人間だ……)
暗い執務室。
記憶を奪い去る闇と、演算を封じる黒い法衣。
ロラン・フォン・アシュベルは、かつてない絶望の淵で、独り、消えゆく思考の糸を紡ぎ続けていた。




