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『神の視点 ~零式創世戦記~』  作者: noanoa
第10章:聖女の問い

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第71話:母の面影


その日の午後。


 ロランは一人、王宮の庭園を歩いていた。


 視界に広がるのは、煤けた灰色の木々。

 生気を失った、鈍色の花壇。

 そして、色を剥ぎ取られた空。


 すべてが同じコントラストの中に沈んでいた。


 だが、ロランの思考は、眼前の景色よりも遥かに深刻な「欠落」に向かっていた。


(母さん……)


 ロランは、その概念を必死に手繰り寄せる。


(エレナ……エレナ……)


 その名を、呪文のように何度も繰り返した。

 脳内の記録領域から、消えてしまわないように。

 演算の彼方へ、廃棄されてしまわないように。


(エレナ・フォン・アシュベル……。俺の、母だ)


 だが、名前という「文字データ」を呼び出せても、付随するはずの映像が伴わない。

 顔が見えない。

 声が聞こえない。

 かつて俺を抱きしめたであろう温もりすら、輪郭がぼやけていく。


 ロランは立ち止まり、庭の隅にある石造りのベンチに身を預けた。

 

 瞼を閉じ、記憶の深淵を検索する。

 幼少期の屋敷。母と過ごした時間。

 

 ……だめだ。

 すべてが濃い霧の向こうにある。

 断片的な情報の破片は浮き沈みするが、肝心の「母」という中心核が見当たらない。


(……あれ?)


 一瞬、思考が途切れた。


(母さんの名前……何だったっけ……)


 数秒前まで覚えていたはずの文字列が、さらさらと砂のように零れ落ちる。


(エレナ……。そうだ、エレナだ)


 必死に再ロードする。

 だが、今の空白が何度目の「忘却」なのか、自分でも判別ができなかった。


(これが……記憶の破棄。タクティカル・ビューの、次の代償か)


 能力の維持に必要な演算リソースを確保するため、脳が「不要」と判断した過去を消していく。

 そしてあろうことか、この怪物は、俺にとって最も大切な記憶から順に喰らっていくのだ。


「ロラン様」


 不意に、隣に重みを感じた。

 目を開ければ、そこには巨漢の料理人――ガルドが座っていた。


「ガルド……」


「どうしました? 難しい顔をして、独りでお悩みですか」


 その声は、焚き火のような温かさを孕んでいた。


「……少し、昔のことを思い出そうとしていたんだ」


「昔のこと……ですか」


 ガルドは、ロランの横顔をじっと見つめ、小さく頷いた。


「お母様の……ことですね」


 ロランは、僅かに目を見開いた。


「……なぜ、それを?」


「リーナから聞きましたよ。ロラン様が最近、お母様のことを忘れかけている、と」


 ロランは答えを失い、ただ静かに視線を落とした。


「俺は、お母様にお会いしたことはありません。ですが、噂は聞いています」


 ガルドは、どんよりとした曇天を見上げた。


「エレナ様は、この上なくお優しい方だったとか。アシュベル家の誰もが、彼女を慕っていたそうですね。そして――」


 ガルドの手が、ロランの肩に置かれた。

 分厚い掌。頼もしい、生身の熱。


「誰よりも、ロラン様を愛しておられたと」


 その言葉に、胸の奥がキリリと痛んだ。

 母は俺を愛していた。

 具体的なエピソードは思い出せなくても、その「結論」だけが、魂に刻まれた痕跡として残っている。


「ガルド……」


 ロランの声が、微かに震えた。


「俺はもう、母の顔を思い出せないんだ。名前も……さっき、一瞬忘れた。何度も繰り返さないと、どこかへ消えてしまうんだ」


「大丈夫ですよ」


 ガルドは、力強く、そして穏やかに言った。


「俺たちが覚えています。ロラン様のお母様のことも、貴方の過去も。全部――俺たちが、代わりに守りますから」


「……ありがとう、ガルド」


 ロランは、口角を歪めて微笑んだ。

 表情筋の動かし方すら忘れてしまったような、ぎこちない笑顔。

 ガルドはそれ以上何も言わず、ただその熱を分けるように、肩に手を置き続けてくれた。


 その夜。


 ロランは自室で、古い日記帳を捲っていた。

 幼い頃の自分が書いた、几帳面すぎる文字の羅列。


『今日、母様と庭で遊びました。母様は優しく笑っていました。僕はとても嬉しかったです』


 ……。

 ……何も、浮かんでこない。

 

 それは、どこかの知らない誰かの、記録映画のあらすじを読まされているようだった。

 庭を駆ける足の感触も、母の笑い声も。

 他人の記憶のように、俺の心は冷え切ったまま動かない。


「主様、入っていい?」


 ノックと共に、リーナが顔を出した。

 彼女は小さな銀色のペンダントを差し出す。


「これ……見つけたの。エレンさんが、預かっててくれたんだって」


「母の……形見か」


 受け取ったペンダントの蓋を開けると、そこには小さな肖像画が収められていた。

 

 灰色の髪に、灰色の瞳。

 穏やかに微笑む、無彩色の女性。


(これが……母なのか……)


 ロランはその顔を、食い入るように見つめた。

 懐かしさを感じたい。涙を流したい。

 だが、どれほど見つめても、それは「初めて会う女性の絵」でしかなかった。


「これがエレナ様だよ。主様」


 リーナが、ロランの体をそっと抱きしめた。


「大丈夫。私が、全部覚えてる。主様の過去も、お母様のことも。私が、貴方の記憶になるから」


「……ああ。すまない、リーナ」


 ロランはリーナを抱きしめ返したが、その力は弱々しかった。

 自分という存在が、少しずつ希釈され、薄まっていく。

 その恐怖が、じわりと、だが確実に彼を支配し始めていた。


 翌昼。

 王宮の会議室。アルベルトと二人きりになった際、王はロランの異変に気づいた。


「ロラン、顔色が悪いぞ。……昨日も、同じことを二回聞いてきたが」


「……二回、ですか。俺が?」


「ああ。セシリアの神託の対策についてだ」


 心臓が、跳ねた。

 自覚がない。

 自分という一貫した人格に、穴が開いている。


「ロラン。一つ聞いていいか」


 アルベルトの声が、沈痛な響きを帯びる。


「君の母の名前を、言ってみてくれ」


 ……。

 ……数秒の沈黙。

 脳内インデックスへのアクセス。遅延。検索。ヒット。


「……エレナ。エレナ・フォン・アシュベルです」


 絞り出すように答えたロランを、アルベルトは泣き出しそうな目で見つめた。

 その答えが出るまでの数秒。

 それが、ロランの脳がどれほど限界に近いかを物語っていた。


「ロラン。君は一人じゃない」


 アルベルトが、その震える肩を抱く。


「俺がいる。リーナも、ガルドも、皆がいる。君が忘れたって、俺たちがそれを証明してやる。だから――」


「ありがとうございます……陛下」


 ロランは頷いた。

 だが、その声はどこか機械的な静謐さを保っていた。

 

 その夜。

 自室に戻ったロランは、母のペンダントを握りしめ、闇の中で呟き続けた。


「エレナ……エレナ……エレナ……」


 忘れないように。

 脳に、直接刻みつけるように。


「母、エレナ・フォン・アシュベル。優しく……微笑んでいた……」


 暗唱される言葉。

 だが、その言葉に彩りを与えるはずの「心」は、もう半分ほど、タクティカル・ビューという怪物に喰らい尽くされていた。


 灰色の世界の中で。

 ロランは、消えゆく自分を繋ぎ止めるための、孤独な戦いを続けていた。




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