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『神の視点 ~零式創世戦記~』  作者: noanoa
第10章:聖女の問い

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第70話:ロランの記憶の揺らぎ


翌朝。


 ロランは、冷え切った意識の底から這い上がるように目を覚ました。

 視界に広がるのは、煤けた石板のような灰色の天井。


 いつもと変わらぬ、無彩色の朝。

 だが――。


(……おかしい)


 指先が、シーツの乾いた感触をなぞる。

 ここがどこか、自分が誰か。

 その「定義」が脳内にロードされるまで、数秒の空白があった。


 致命的な、ラグ。


(王都ルミナス……王宮の客室だ。そうだ、思い出した)


 アルベルトの即位。聖女セシリアの来訪。

 断片的な事実がパズルのように組み上がり、ようやく「ロラン・フォン・アシュベル」という存在が形を成す。


 額に触れれば、ゾフィア特製の『零式冷却冠』が、命を削る脳の熱を強引に奪い去っていた。

 温度は正常。

 だが、中身が――記録が、零れ落ちている。


 コン、と小気味良いノックの音が響いた。


「主様、起きてる?」


 リーナの声だ。

 扉が開き、彼女が朝食のトレイを運んでくる。


「おはよう、リーナ」


 ロランは微笑もうとした。

 だが、顔の筋肉が正しく動いているか確信が持てない。

 案の定、リーナはトレイを置く手に微かな迷いを見せ、心配そうに眉を寄せた。


「主様、大丈夫? なんだか……顔色が変だよ」


「……少し、考え事をしていただけだ」


 トレイの上には、パンとスープ。

 視界には濃淡の異なるグレーの塊として映るが、立ち上る湯気の「熱」が、それが食事であることを教えてくれる。


「野菜のスープ。ガルドが、主様のためにって」


「ガルド……」


 ロランはその名を、脳内のインデックスから検索する。

 巨漢。料理人。かつての仲間。

 データは揃っている。


 だが。

 彼とどこで出会い、どんな言葉を交わして、なぜ信頼を寄せるに至ったのか。

 その「過程エピソード」が、霧に包まれたように不鮮明だった。


(アイギス砦……だったか。それとも、もっと前か?)


 確かなはずの過去が、熱に浮かされた夢のように輪郭を失っている。


「主様?」


 リーナの手が、ロランの手を握りしめた。

 その体温だけが、冷徹な演算に支配された世界で唯一の、生きた実体だ。


「主様、最近おかしいよ。……昨日も、一瞬だけ、私の名前を忘れてたでしょ?」


 心臓を冷たい手で掴まれたような、戦慄が走った。


(昨日……俺は、リーナの名前を忘れたのか?)


 思い出せない。

 そんな失態を演じた事実さえ、既に「削除」されている。


「主様……怖いよ……」


 リーナの瞳に、薄い光の膜――涙が浮かぶ。

 

「大丈夫だ。……ただの、過労だよ」


 優しい嘘を吐きながら、リーナの頭を撫でる。

 だがロランには分かっていた。

 代償の第三段階が、いよいよ本格的に始動したのだ。


 第一段階:色覚の消失。

 第二段階:味覚・嗅覚の消失。

 そして。

 第三段階:演算領域確保のための、記憶の破棄。


 母の顔、故郷の風景、かつての友との約束。

 ロランを人間たらしめる「余計なデータ」から順に、タクティカル・ビューという怪物が喰らい尽くしていく。


 午後の図書室。

 ロランは静寂の中で、己の記憶の「残量」を確認していた。


(母の名は、エレナ・フォン・アシュベル……)


 文字情報は出力できる。

 だが、その名前を呼んだ時の心の震えや、母の微笑みの輪郭がどうしても浮かん語来ない。

 母の顔があるべき場所には、ただ、真っ白な空白が広がっているだけだ。


(……顔さえ、思い出せないのか)


 本を握る指先が、激しく震えた。

 自分が自分でなくなっていく。

 ただの「演算装置」へと、磨り潰されていく。


「ロラン、ここにいたのか」


 扉が開いた。

 アルベルトだ。

 彼はロランの隣に座ると、焦燥を隠しきれない様子で身を乗り出した。


「セシリアのことだ。日に日に民衆の信仰が強まっている。僕の言葉より、彼女の『神託』が正義になってしまった……」


「対策は、既に練っています」


 ロランは、無機質な知性の影に恐怖を押し込み、答えた。


「神託のアルゴリズムを解析し、その予測を上回る『偽装情報』を流布させます。聖女の奇跡を、単なる技術ロジックへと引きずり下ろす」


「……ああ、頼むよ。君だけが頼りだ」


 アルベルトの大きな手が、ロランの肩を叩く。

 その厚み。その熱。

 それすらも、いつか俺は忘れてしまうのだろうか。


 アルベルトが去った後、ロランは自室の闇に沈んでいた。

 

 リーナとの出会い。

 ガルドとの共闘。

 それらが、映像から文字情報へ、そしてただの「概念」へと劣化していく。


 そこへ、再びリーナが訪れた。

 その手には、古びた小さな布の袋。


「これ、主様に。……思い出の品」


 差し出された袋を開けると、中には小さな端切れが幾枚も入っていた。

 そこには、リーナの不器用な、だが力強い手書きの文字が刻まれている。


『アイギス砦で、初めて会った日。主様は、私を選んでくれた』

『ガルドは、主様のために毎日スープを作ってる。味がわからなくても、熱いのは届くはずだからって』

『アルベルト様は、主様のことを親友だと言った』


 それは、ロランの脳から零れ落ちた記憶の「バックアップ」だった。


「主様が忘れちゃっても。私が、全部覚えてるから」


 リーナの瞳から、一筋の雫が零れる。


「私が、思い出させる。だから……安心して、戦って」


 ロランは、その小さな体を抱きしめた。

 温かい。

 鼓動の振動が、胸に伝わる。


「……ああ、約束だ。リーナ」


 歪んだ、だが心からの笑顔を浮かべ、ロランは誓う。

 

 自分の記憶が、他人が書いた記録に置き換わっていく。

 自分自身が「外部デバイス」なしには自己を保てない怪物に成り果てていく。

 

 それでも。

 この温もりだけは、データとして処理したくなかった。


 灰色の世界の中で。

 ロランは、リーナが綴った「自分の過去」を握りしめ、再び戦場へと視線を向ける。


 教国の聖女セシリア。

 彼女との対決は、もはや王国を救うための戦いだけではない。

 

 ロラン・フォン・アシュベルという人間を、この世界に繋ぎ止めるための――最後の抗いだった。





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