第70話:ロランの記憶の揺らぎ
翌朝。
ロランは、冷え切った意識の底から這い上がるように目を覚ました。
視界に広がるのは、煤けた石板のような灰色の天井。
いつもと変わらぬ、無彩色の朝。
だが――。
(……おかしい)
指先が、シーツの乾いた感触をなぞる。
ここがどこか、自分が誰か。
その「定義」が脳内にロードされるまで、数秒の空白があった。
致命的な、ラグ。
(王都ルミナス……王宮の客室だ。そうだ、思い出した)
アルベルトの即位。聖女セシリアの来訪。
断片的な事実がパズルのように組み上がり、ようやく「ロラン・フォン・アシュベル」という存在が形を成す。
額に触れれば、ゾフィア特製の『零式冷却冠』が、命を削る脳の熱を強引に奪い去っていた。
温度は正常。
だが、中身が――記録が、零れ落ちている。
コン、と小気味良いノックの音が響いた。
「主様、起きてる?」
リーナの声だ。
扉が開き、彼女が朝食のトレイを運んでくる。
「おはよう、リーナ」
ロランは微笑もうとした。
だが、顔の筋肉が正しく動いているか確信が持てない。
案の定、リーナはトレイを置く手に微かな迷いを見せ、心配そうに眉を寄せた。
「主様、大丈夫? なんだか……顔色が変だよ」
「……少し、考え事をしていただけだ」
トレイの上には、パンとスープ。
視界には濃淡の異なるグレーの塊として映るが、立ち上る湯気の「熱」が、それが食事であることを教えてくれる。
「野菜のスープ。ガルドが、主様のためにって」
「ガルド……」
ロランはその名を、脳内のインデックスから検索する。
巨漢。料理人。かつての仲間。
データは揃っている。
だが。
彼とどこで出会い、どんな言葉を交わして、なぜ信頼を寄せるに至ったのか。
その「過程」が、霧に包まれたように不鮮明だった。
(アイギス砦……だったか。それとも、もっと前か?)
確かなはずの過去が、熱に浮かされた夢のように輪郭を失っている。
「主様?」
リーナの手が、ロランの手を握りしめた。
その体温だけが、冷徹な演算に支配された世界で唯一の、生きた実体だ。
「主様、最近おかしいよ。……昨日も、一瞬だけ、私の名前を忘れてたでしょ?」
心臓を冷たい手で掴まれたような、戦慄が走った。
(昨日……俺は、リーナの名前を忘れたのか?)
思い出せない。
そんな失態を演じた事実さえ、既に「削除」されている。
「主様……怖いよ……」
リーナの瞳に、薄い光の膜――涙が浮かぶ。
「大丈夫だ。……ただの、過労だよ」
優しい嘘を吐きながら、リーナの頭を撫でる。
だがロランには分かっていた。
代償の第三段階が、いよいよ本格的に始動したのだ。
第一段階:色覚の消失。
第二段階:味覚・嗅覚の消失。
そして。
第三段階:演算領域確保のための、記憶の破棄。
母の顔、故郷の風景、かつての友との約束。
ロランを人間たらしめる「余計なデータ」から順に、タクティカル・ビューという怪物が喰らい尽くしていく。
午後の図書室。
ロランは静寂の中で、己の記憶の「残量」を確認していた。
(母の名は、エレナ・フォン・アシュベル……)
文字情報は出力できる。
だが、その名前を呼んだ時の心の震えや、母の微笑みの輪郭がどうしても浮かん語来ない。
母の顔があるべき場所には、ただ、真っ白な空白が広がっているだけだ。
(……顔さえ、思い出せないのか)
本を握る指先が、激しく震えた。
自分が自分でなくなっていく。
ただの「演算装置」へと、磨り潰されていく。
「ロラン、ここにいたのか」
扉が開いた。
アルベルトだ。
彼はロランの隣に座ると、焦燥を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「セシリアのことだ。日に日に民衆の信仰が強まっている。僕の言葉より、彼女の『神託』が正義になってしまった……」
「対策は、既に練っています」
ロランは、無機質な知性の影に恐怖を押し込み、答えた。
「神託のアルゴリズムを解析し、その予測を上回る『偽装情報』を流布させます。聖女の奇跡を、単なる技術へと引きずり下ろす」
「……ああ、頼むよ。君だけが頼りだ」
アルベルトの大きな手が、ロランの肩を叩く。
その厚み。その熱。
それすらも、いつか俺は忘れてしまうのだろうか。
アルベルトが去った後、ロランは自室の闇に沈んでいた。
リーナとの出会い。
ガルドとの共闘。
それらが、映像から文字情報へ、そしてただの「概念」へと劣化していく。
そこへ、再びリーナが訪れた。
その手には、古びた小さな布の袋。
「これ、主様に。……思い出の品」
差し出された袋を開けると、中には小さな端切れが幾枚も入っていた。
そこには、リーナの不器用な、だが力強い手書きの文字が刻まれている。
『アイギス砦で、初めて会った日。主様は、私を選んでくれた』
『ガルドは、主様のために毎日スープを作ってる。味がわからなくても、熱いのは届くはずだからって』
『アルベルト様は、主様のことを親友だと言った』
それは、ロランの脳から零れ落ちた記憶の「バックアップ」だった。
「主様が忘れちゃっても。私が、全部覚えてるから」
リーナの瞳から、一筋の雫が零れる。
「私が、思い出させる。だから……安心して、戦って」
ロランは、その小さな体を抱きしめた。
温かい。
鼓動の振動が、胸に伝わる。
「……ああ、約束だ。リーナ」
歪んだ、だが心からの笑顔を浮かべ、ロランは誓う。
自分の記憶が、他人が書いた記録に置き換わっていく。
自分自身が「外部デバイス」なしには自己を保てない怪物に成り果てていく。
それでも。
この温もりだけは、データとして処理したくなかった。
灰色の世界の中で。
ロランは、リーナが綴った「自分の過去」を握りしめ、再び戦場へと視線を向ける。
教国の聖女セシリア。
彼女との対決は、もはや王国を救うための戦いだけではない。
ロラン・フォン・アシュベルという人間を、この世界に繋ぎ止めるための――最後の抗いだった。




