第69話:民衆の熱狂
翌日。
王都ルミナスの街は――変質していた。
いや、致死的な毒に侵されたと言うべきか。
セシリアが神託を授けてから、わずか一日。
街を満たしていた復興の活気は、今や異様な「熱」へと姿を変えている。
中央広場には、昨日を遥かに凌ぐ群衆がひしめいていた。
老人、若者、子供、赤子を抱いた母親。
あらゆる階層の人間が、一筋の光を求めるようにそこへ集う。
彼らの瞳に宿っているのは、希望ではない。
それは、理性を焼き切られた末の「狂信」だ。
ロランは王宮の窓から、その蠢きを見下ろしていた。
灰色の視界の中で、無数の影が波打っている。
(危険だ……)
民衆の熱狂は、爆薬に似ている。
一度火がつけば、その爆発は制御不能となり、容易く暴力へと反転する。
その時。
祭壇の上に、セシリアが現れた。
朝光を弾く白の法衣。高輝度で発光するような銀の髪。
盲目の聖女。
彼女が姿を見せた瞬間、広場は割れんばかりの歓声に包まれた。
「聖女様だ!」
「セシリア様! 神の御言葉を!」
地鳴りのような叫びが、石造りの王宮を震わせる。
セシリアは、慈愛を形にしたような微笑を湛え、両手を広げた。
「皆様。今日も、主の祝福をお届けします」
一転して、広場は静まり返る。
数千人の呼吸が、一人の少女の唇に支配されていた。
「今日は――主の癒しを、皆様にお見せしましょう」
民衆がどよめく。
癒し。奇跡。
その甘美な響きに、人々は唾を呑んだ。
「どなたか。病に苦しむ方は、いらっしゃいますか?」
一人の老人が、震える足取りで前に出た。
杖を握る手は節くれ立ち、全身で苦痛を堪えている。
「聖女様……。私の足が……もう五年も、動かないのです……」
セシリアは、その老人の前で静かに膝をついた。
「大丈夫です。主は、貴方を見捨てません」
セシリアの手が、老人の足に触れる。
その瞬間――彼女の掌が、刺すような白光に包まれた。
治癒魔法。
だが、それはロランが知るどの系統とも異なる、洗練された術式だった。
「あ……ああ……っ!」
老人が呻き声を上げる。
「足が……足が温かい……! 動く、動くんだ……!」
カラン、と乾いた音を立てて杖が地面に落ちた。
老人は震えながら、五年ぶりに己の足で大地を踏み締める。
一歩、二歩。
「歩ける……歩けるんだ……!」
歓喜の涙を流す老人。
それを見た群衆は、もはや絶叫に近い歓声を上げた。
「奇跡だ……!」
「神の御力だ! 聖女様、万歳!」
熱狂が、広場を濁流となって駆け抜ける。
跪き、涙を流してセシリアを拝む人々。
ロランは、その光景を絶対零度の瞳で見つめていた。
(高度な治癒魔法だ。……だが、それだけだ)
ロランには分かっている。
あれは奇跡などではない。計算され尽くした「技術」の展示だ。
教国は、聖女という名の高精度な治癒師を育成し、最適なタイミングで「奇跡」として出力しているに過ぎない。
だが。
理性を失った民衆には、その区別がつかない。
神託で未来を示し、治癒で恩恵を施す。
民の心を完全に掌握し、依存させる――教国のドクトリン。
「ロラン……」
隣に立つアルベルトの声が、苦しげに震えていた。
その顔には、一国の王としての自信が欠片も残っていない。
「民が……僕の言葉より、彼女の言葉を信じている。僕は、一体……」
「アルベルト様。落ち着いてください」
ロランは努めて冷静に告げる。
「確かに、今は彼らの独壇場です。ですが、熱狂は必ず冷める。その時、真実が牙を剥く」
「真実……?」
「ええ。信じてください」
ロランは歪んだ笑みを浮かべた。
脳内温度が、僅かに上昇を始める。
広場では、セシリアが最後の言葉を投げかけていた。
「皆様。どうか、神託に従ってください。それこそが、幸せへの唯一の道です」
「「「神託に従います! 聖女様!」」」
数千人の唱和が、王都を支配する。
武力も金も使わず、ただ「信仰」というシステムで一国を乗っ取ろうとする教国の手腕。
(恐ろしい……が、付け入る隙はある)
その夜。
ロランは執務室で、灰色の地図を睨みつけていた。
統計学。確率論。ベイズ推定。
教国の神託がそれらに基づく「演算」であるならば。
(情報を操作すれば、神託をハッキングできる)
タクティカル・ビューで確率分布を逆算し、教国が導き出す「未来」の予測を裏切る。
あるいは、神託そのものを利用して、彼らを自滅させる。
(情報戦なら、負けるはずがない……)
その時。
思考の深淵で、奇妙な感覚が走った。
(……あれ?)
ロランは瞬きをした。
(今、俺は何を……何をしようとしていた?)
一瞬の、空白。
数秒前まで明瞭だった「神託ハッキング」の具体的なプランが、手から零れ落ちる砂のように消えていく。
(疲れているのか……?)
頭を振る。だが、消えた思考の断片は戻らない。
タクティカル・ビューの代償。
リソース確保のための、強制的な記憶破棄。
ロランはまだ、その致命的な欠落が自分を蝕んでいることに気づいていなかった。
翌日。
街の至る所に、教国の旗――瞳を象った光輪が掲げられていた。
ロランが街へ出ると、リーナが影のように寄り添ってきた。
「主様……」
リーナの小さな手が、ロランの手を握る。
「街、変わった。……怖い」
獣人である彼女の嗅覚は、この街に漂う狂信の臭いを鋭く感じ取っている。
「ええ。たった二日で、この有様です」
ロランはリーナの手から伝わる「熱」を、唯一の錨として自分を繋ぎ止める。
「大丈夫ですよ、リーナ。……全ては、演算の範囲内だ」
そう答えた自分の言葉に、ロランは微かな違和感を覚えた。
本当に、俺は全てを覚えているのか?
祭壇の上で、セシリアがこちらを「見た」。
盲目の瞳が、ロランの焦燥を見透かしたように細められる。
その微笑みは、勝利を確信した者のそれだった。
(セシリア……お前は一体、どこまで知っている)
敵か。味方か。
記憶が、砂塵のように舞い、消えていく。
それでも、戦いは続く。




