第68話:神託の力
翌日。
王都ルミナスの中央広場は、夜明け前から異常な熱気に包まれていた。
数千の民衆が、押し寄せる波のように広場を埋め尽くしている。
彼らの目的は、ただ一つ。
教国の聖女、セシリアの姿を拝すること。
広場の中央に設けられた、純白の祭壇。
そこへ、彼女が静かに姿を現した。
朝光を浴びて、銀髪が鋭い白光を放つ。
風に揺れる法衣の白は、灰色の群衆の中でひときわ眩しく、ロランの視界を焼き切るかのようだ。
盲目の聖女――セシリアが、その両手を緩やかに広げた。
「皆様」
凛とした声が、広場に染み渡る。
不思議な声だった。
喧騒は一瞬で凪ぎ、赤ん坊の泣き声さえも霧散する。
数千の人々が、まるで一つの巨大な生物になったかのように、彼女の言葉を待つ。
「私は、神聖エル=ナフ教国より参りました。聖女セシリアと申します」
慈愛に満ちた、穏やかな響き。
「今日、皆様に神の祝福を。……そして、大いなる『神託』をお授けしましょう」
その瞬間、広場が爆発したような地鳴りに揺れた。
「神託だと……!」
「ああ、聖女様が未来を……!」
熱狂。
それは盲目的な信仰がもたらす、最も制御困難なエネルギーだ。
ロランは王宮の窓から、冷徹にその「熱」を観測していた。
隣に立つアルベルトの拳が、微かに震えている。
「ロラン……本当に、神託なんてものが存在すると思うか?」
「……あり得ません」
ロランは即答した。
無彩色の瞳に、祭壇上の聖女を映す。
「あれは、高度な統計学と心理操作の融合体です。神の言葉などではない」
「だが――民は、そうは思わない」
アルベルトの苦渋に満ちた言葉を、祭壇からの声が遮った。
セシリアが天を仰ぎ、深く、静かに息を吸い込む。
「神は、語られる……」
広場を支配する、圧倒的な沈黙。
「この王国に、光が差す。新たな王が、正しき道を歩まれるでしょう」
民の期待を煽る、甘い予言。
だが、彼女の声は一転して低く、重く沈んだ。
「――だが、試練もまた訪れる」
「北より来る、鋼鉄の軍勢」
「西より来る、裏切りの影」
「南より来る、偽りの救い」
一つ、また一つ。
具体的でありながら、解釈の余地を残した「予言」が投げ込まれる。
民衆の顔から血の気が引き、恐怖が伝染していく。
「これらの試練を乗り越えた時。……この王国は、真の平和を手にするでしょう」
絶望の後の、救済。
感情を揺さぶり、民衆を「教国の導き」なしにはいられない状態へ追い込む――完璧な演説。
広場は、狂信的な歓喜と叫び声に包まれた。
(北はバルムンク帝国、西は反王派の貴族……)
ロランの脳内で、情報が高速でリンクしていく。
(南の『偽りの救い』は……自作自演の保険か。あらかじめ敵を設定し、それを排除することで自らの正当性を証明する。実に合理的だ)
教国は武力を使わない。
金も使わない。
ただ、情報の海から「未来」を演算し、それを信仰という名のパッケージで配布する。
「恐ろしいな……。民が、完全に心を預けてしまっている」
アルベルトの呟きは、熱狂の渦にかき消された。
その時。
祭壇に、一人の男が歩み寄った。
漆黒の法衣を纏った、剃刀のように痩せた男。
異端審問官、ヴァルガス。
「聖女様の神託を賜った者は、祝福を受けた者である!」
ヴァルガスの声は、金属が擦れるような不快な響きを帯びていた。
「だが――神託に背き、疑いを抱く者は『異端』である。我々は、神の敵を見逃さない」
歓喜に、どす黒い恐怖が混ざり込む。
神の慈悲と、審問官の処刑。
飴と鞭による完璧な支配システム。
『タクティカル・ビュー:起動推奨』
『解析対象:神託の構築理論』
脳内にシステムメッセージが明滅するが、ロランはそれを意識の隅で撥ね退けた。
まだだ。
まだ、リソースを割く段階ではない。
その夜。
ロランは一人、セシリアの滞在する客室を訪れていた。
月光が差し込む、色彩を剥ぎ取られた部屋。
セシリアは椅子に深く腰掛け、閉じられた瞳で窓の外を「視て」いた。
「こんばんは、ロラン様」
扉を開ける前から、彼女はロランの到来を察知していた。
「夜分に失礼。……今日の神託、見事な演出でした」
ロランの皮肉に、セシリアは柔らかな微笑を返す。
「神の声を、正確に降ろしたまでですわ」
「神の声、ですか。……本当に?」
ロランが歩み寄る。
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れた。
「……ロラン様は、神を信じておられない?」
「信じるか否かは、論理の問題ではありません。私が問うているのは、あれが『演算結果』ではないのか、という点です」
セシリアの笑みが、僅かに凍りついた。
「……貴方は、本当に危険な方ですね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ロランとの距離を詰める。
盲目のはずの彼女の瞳が、真っ直ぐにロランを射抜いた。
「私には、見えるのです。貴方の周囲で蠢く、おぞましいほどの『演算の痕跡』が。数式、図形、そして……世界そのものを解体するような視線」
セシリアの声が、微かに震える。
「それは神の力か、あるいは……」
「ただの技術ですよ」
冷たく言い放つロラン。
だが、セシリアは彼の冷徹な拒絶を無視し、その手をそっと取った。
冷たい手だ。
だが、そこには確かな「熱」があった。
触覚を通じて伝わる、生物としての脈動。
「ロラン様。……もし、神託の真実を知りたいのなら。私が、教えて差し上げましょうか?」
ロランの眉が動く。
「……教国の聖女が、機密を漏らすと?」
「ええ。……私も、ずっと疑問に思っていたのです。この声は、本当に神のものなのか。それとも――」
セシリアは、声を極限まで潜めた。
「――巨大な書庫と、統計学が生み出した『幻』なのか」
やはり。
彼女自身も、このシステムの犠牲者であり、同時に疑念を抱く「欠落者」なのだ。
「神託は、統計学です」
彼女の口から漏れた言葉は、ロランの予測と完全に一致した。
禁書庫に集まる各国の機密。ベイズ推定、回帰分析……。
聖女とは、その演算結果を民衆へ出力するための、美しい「インターフェース」に過ぎない。
「なぜ、俺に教える」
「……貴方と話していると、運命が、書き換わる予感がするからです」
彼女の手の温もりが、ロランの掌に残る。
「私はまだ、決めていません。教国の操り人形で居続けるか、それとも。……貴方は、どうなさるのですか?」
ロランは答えず、彼女の手を静かに離した。
「また、話しましょう。……セシリア」
廊下を歩きながら、ロランの脳内では新たな戦略図が構築されていた。
聖女セシリア。彼女をこちらの陣営に引き込めれば、教国の支配体制を内側から崩壊させられる。
だが。
(……待て。今、俺は何を考えていた?)
ふと、思考にノイズが走った。
ほんの一瞬。
数秒前までの思考の糸が、ぷつりと断ち切られたような。
(疲れているのか……? いや、これは……)
自室のベッドに倒れ込み、灰色の天井を見上げる。
記憶の揺らぎ。
タクティカル・ビューという呪いの代償が、いよいよ「意識の連続性」にまで侵食を始めていた。
明日、俺は何を忘れる?
母の顔か、戦友の誓いか。
加速する脳内温度。
削り取られていく人間性。
その恐怖を押し殺し、ロランは思考の海へと沈んでいった。
神託の嘘を暴くために。
まだ自分が、自分であるうちに。




