第66話:教国の介入
それから、二週間が過ぎた。
王都ルミナス。
白亜の城塞は、今や復興の光を反射し、眩いばかりの輝きを放っている。
アルベルト・フォン・レガリアが新王として即位して、十日。
街は、急速に活気を取り戻していた。
だが――。
王宮の執務室。
ロランは一人、机上の地図を凝視していた。
網膜に映るのは、煤と鉛で描かれたような灰色の世界。
色彩はない。
花の香りも、淹れたての茶の味も、とうの昔に忘れた。
ただ、紙のざらついた質感と、窓から差し込む陽光の「熱」だけが、彼に現実を教える。
(神聖エル=ナフ教国……)
ロランの指が、地図の南部をなぞる。
瞳を象った光輪を国章に掲げる、巨大な神権政治国家。
表向きは平和と救済を説き、各国へ「聖女」を派遣する慈善の国。
だが、その本質をロランは見抜いていた。
「神託、か……」
渇いた声が、静かな部屋に落ちる。
教国が放つ「神託」は、大陸の民にとって絶対だ。
未来を予言し、王の決断を操り、時には熱狂的な戦争すら引き起こす。
だが。
ロランの瞳が、冷徹な光を帯びる。
(神託など、この世に存在しない)
あれは、信仰という名の皮を被った「統計学」であり「情報操作」の産物だ。
タクティカル・ビューを持つロランには、その「奇跡」の裏側が透けて見える。
大陸全土に張り巡らされた密偵網。
膨大なサンプルから導き出される確率論。
そして、民衆心理を掌握するための、極めて高度な演出。
すべては、計算。
それも、吐き気がするほど冷酷な。
その時、重厚な扉がノックされた。
「入れ」
入ってきたのは、アルベルトだった。
「ロラン」
親友の顔には、隠しようのない疲労が張り付いている。
即位以来、休む間もなく政務に追われる日々。
その肩にのしかかる重圧を、ロランは彼の呼吸の熱さから感じ取った。
「報告がある」
アルベルトはロランの向かいに腰を下ろすと、声を潜めた。
「神聖エル=ナフ教国から、使節が来る。三日後だ」
ロランの眉が、僅かに動く。
「……正式な祝賀使節、ですか」
「ああ。僕の即位を祝福し、我が国に『治癒の聖女』を派遣したいと申し出てきている」
アルベルトの声は重い。
「断ることは?」
「できない。教国は大陸最大の宗教勢力だ。無碍にすれば、信仰心厚い我が民を敵に回すことになる」
もっともな判断だ。
教国は武力を使わない。
代わりに、民の「心」を人質に取る。
「警戒が必要です。アルベルト」
ロランは、地図上の教国領を強く指で押さえた。
「教国の聖女は、慈悲深い治癒師などではない。……情報を吸い上げる、生きたエージェントだ」
アルベルトの表情が強張る。
「……君は、本気でそう思っているのか?」
「ええ。彼女たちが集めた機密が『神託』の材料になる。つまり――」
ロランの視界が、一瞬鋭さを増す。
「神託とは、信仰を武器にした高度な情報戦に過ぎない」
アルベルトは、絶句した。
ロランの分析は、常に正しい。
正しすぎて、時として救いがないほどに。
「では、どうすればいい?」
「迎え入れるしかありません。ですが、監視は密かに。エレンさんに頼んで、『影爪』を動かしましょう」
「……わかった。手配しよう」
アルベルトは頷き、ふと、ロランの顔を覗き込んだ。
「ロラン。君は……その、体調はどうだ?」
気遣わしげな視線。
ロランは、頬を釣り上げて見せた。
それが「笑顔」という形を保てているのか、自分ではもう分からない。
「大丈夫です」
「本当に、か?」
「ええ」
脳を焼くような熱を、冷却冠の冷気で強引に抑え込みながら、ロランは頷く。
アルベルトは痛ましそうに目を伏せた。
親友が嘘をついていることなど、彼にはお見通しだったが……それを指摘する強さは、今の彼にはなかった。
三日後。
王都の南門に、教国の使節団が姿を現した。
目に刺さるような、高輝度の純白。
白一色で統一された馬車。
陽光を反射する、神官たちの法衣。
そして――。
馬車から降り立った一人の女性に、民衆の視線が釘付けになった。
輝くような銀の髪。
浮世離れした美貌。
だが、その瞳は――固く閉じられている。
盲目の聖女、セシリア。
彼女が大地に一歩を踏み出した瞬間、民衆から爆発的な歓声が上がった。
「聖女様だ!」
「教国の聖女様が、この国を救いに来てくださったぞ!」
熱狂。
その渦の中心で、セシリアは穏やかに微笑んでいた。
ロランは、王宮の窓からその光景を見下ろしていた。
灰色の群衆の中で、異様なほどの白さを放つ女。
(セシリア……)
その名を、記憶の奥底に刻み込む。
その時、脳内に鋭いノイズが走った。
『タクティカル・ビュー:起動可能』
『対象:聖女セシリア』
『危険度評価:計測不能……不明』
『推奨:最大警戒』
不明。
能力が警告を発している。
ロランは、奥歯を噛み締めた。
剣でも魔法でもない。「信仰」と「情報」という名の毒を操る敵。
それはロランにとって、過去最高に相性の悪い相手だった。
その日の夕刻。
王宮の大広間で、歓迎式典が執り行われた。
正装を纏ったアルベルトの傍らに、ロランもまた、影のように控えていた。
「ようこそ、聖女セシリア。レガリア王国へ」
アルベルトの社交辞令に、セシリアは優雅に会釈する。
「光栄ですわ、アルベルト王。あなたの即位を、主もお喜びです」
鈴を転がすような、清涼な声。
だが、ロランの耳が、微かな違和感を拾った。
(この声……どこかで?)
思考の海をさらうが、答えは見つからない。
脳の損傷と共に、大切な記憶の断片が霧の向こうへ消えつつある。
その時。
閉じられていたはずのセシリアの顔が、ゆっくりとロランの方を向いた。
「……あなたが、ロラン・フォン・アシュベル様」
セシリアが、微笑を深める。
「『魔力なき軍師』。……そう呼ばれる貴方に、お会いしたかった」
ロランは答えない。
ただ、濃淡だけの視界で彼女を射抜く。
「私、貴方にとても興味がありますの。魔力を持たぬ身でありながら、数多の勝利を積み上げる。それは――」
セシリアの瞼が、僅かに開いた。
覗いた瞳は、白く濁っている。
視力は、ないはずだ。
なのに、ロランは射すくめられるような錯覚に陥る。
「主による『奇跡』、なのでしょうか?」
試すような問いかけ。
ロランは、氷のように冷たい声で切り捨てた。
「いいえ。……ただの演算です」
セシリアは一瞬の沈黙の後、楽しげに喉を鳴らした。
「ふふっ……。面白い方ですわね」
彼女は再び目を閉じ、優雅な所作で身を翻す。
「では、いずれゆっくりとお話ししましょう。……貴方の『中』にあるものについて」
セシリアが去った後も、ロランの脳内温度は下がらない。
(この聖女……)
警戒のアラートが鳴り止まない。
灰色の世界に、かつてない不穏な影が落ちようとしていた。




