閑話:赤の帳簿 〜エレン・真実への到達〜
深夜。 ローウェル商会エモン支部の執務室は、静寂に包まれていた。
エレン・ローウェルは、一人で帳簿と向き合っている。 赤い髪を無造作に後ろで束ね、眼鏡を指先で押し上げた。 ランプの明かりが、紙面に踊る無数の数字を白日の下に晒し出している。
「……ふむ」
エレンの指が、帳簿の一行で止まった。 収支記録、支出明細、取引先リスト――。 すべては、彼女の手によって完璧に管理、最適化されている。
だが――。 たった一行。熟練の商人の目を誤魔化せない「ノイズ」が混じっていた。
「これは……」
エレンは、その行を凝視した。
支出:土地購入費。 金額:金貨二百枚。 場所:王都郊外、北東の森。 用途:不明。
「ロラン……あなたが、こんな無駄な買い物を?」
エレンは、小さく首を傾げた。 ロラン・フォン・アシュベルは、常に合理的だ。 無駄な投資、実益のない出費。彼はそれらを、何よりも嫌う男だった。
だが、この土地は――。 王都郊外の、深い森。 交通の便は最悪。農地にも適さず、商業的な価値も、軍事的な戦略価値もゼロに等しい。
「なぜ……?」
エレンは帳簿をめくる手を速めた。 さらに、別の「ノイズ」が浮き上がる。
支出:物資購入費。金貨百枚。 内容:特殊薬草、保存容器、冷却装置の予備部品。 納品先:ゾフィアの工房。
「これも、用途不明……」
エレンの眉が、わずかに潜められた。 ゾフィアに冷却装置の改良を頼んでいるのは知っている。 だが、この薬草と保存容器は――何のための「在庫」なのか。
エレンは、さらに過去の記録を掘り起こした。 そして、見つけた。
定期的な支払い。サイラスへの個人報酬。 仕事内容:伝令、雑務。
「サイラス……」
影の薄い、無口な青年。 いつもロランの傍らに控える、あの護衛。 だが、彼の仕事は本当に「伝令」だけなのか?
エレンは帳簿を閉じ、立ち上がった。 執務室を出て、埃の匂いが漂う地下倉庫へと向かう。
ランプを手に、取引記録の山をかき分ける。 埃を被った箱の中から、ロランに関連する領収書の原本をすべて引き出した。
一枚ずつ、丁寧に検分していく。 土地の権利書。薬草の明細。 そして――一枚の、封筒の写し。
「これは……」
宛先はサイラス。差出人はロラン。 中身の記録はない。 だが、そのやり取りの「頻度」と「タイミング」が、エレンの脳内で一つの線へと繋がっていく。
(ロラン……あなたは、何を隠しているの?)
商人の直感が、警鐘を鳴らしていた。 土地、薬草、サイラスへの密命。 これらすべてが、一つの巨大な「非合理」を示している。
(まるで……自分の『死後』のために、準備をしているような……)
一瞬、心臓を冷たい手で握られたような錯覚。 だが、エレンはすぐに首を横に振った。
(いいえ、違う。あなたは、死を待つような男じゃない) (あなたは――)
エレンの瞳に、鋭い光が宿る。
(生き延びるための、勝算のない賭けを準備しているのね)
パズルのピースが、音を立てて嵌まっていく。 土地は、人目を忍ぶための「蘇生場」。 薬草は、心臓を止めた後の「強制蘇生」の素材。 サイラスは、誰にも知られず遺体を運び出す「死神」。 ゾフィアは、そのすべてを魔導工学で制御する「執刀医」。
「……再誕計画」
エレンは、震える声で呟いた。 「あなたは、一度死んでから――強引に生き返るつもりなのね」
だが、すぐに気づく。 これは商人の視点から見れば、あまりに稚拙で、あまりに勝率の低い投資だ。
脳が焼き切れた後で、元に戻る保証などない。 そのまま帰ってこない可能性の方が、遥かに高い。 それでも――。
(あなたは……諦めていなかったのね)
世界のために自分を使い潰し、色も味も匂いも差し出して。 それでもなお、人間として生きたいと、心の底で叫んでいた。
「ロラン……っ」
エレンは、暗い倉庫の中で泣いた。 声を上げず、ただ涙が頬を伝う。
商人の管理外で行われていた、ロランの「計算違い」。 それは、彼が「機械」になりきれなかった、人間らしさの最後の足跡だった。
「……いいでしょう」
エレンは涙を拭い、決意を固めた。 「あなたの秘密は、私が全て管理させていただきますわ」
彼女は散らばった領収書をすべて集め、自分の手で秘密の保管庫へと移した。 商会の公式記録からは、すべて抹消する。
「この記録は、不慮の事故で紛失しました。……ええ、誰にも見つけることはできません」
執務室に戻ったエレンは、新しい帳簿を取り出した。 赤い表紙の、鍵のかかった一冊。 そこには、ロランの「再誕計画」の全貌を支える、裏の物流が記録される。
薬草の補充。サイラスへの追加支援。ゾフィアへの秘密裏の資金提供。 ロランにも、誰にも気づかれぬよう、裏からすべてを最適化する。
「あなたの望み通り……」 エレンは、ペンを執った。 「私は、あなたの商人になりましょう」
一ページ目。几帳面な文字でタイトルが刻まれる。 『ロラン・フォン・アシュベル 再誕計画 支援記録』
エレンは知っていた。 この計画が成功する確率は、三割にも満たないことを。
だが、それでもいい。 ロランが、その僅かな可能性にすべてを賭けたというのなら。 エレンは、その三割を全力で買い叩き、成功へと導くだけだ。
「私の投資対象は、あなただけですわ」
自嘲気味な微笑。 だが、その奥には商人の冷徹な覚悟があった。
(あなたは、気づいていないでしょうけれど) (私が……これほどまでに、あなたに狂わされていることに)
涙が一滴、インクを滲ませた。 彼女はすぐにそれを拭い、乾かした。 弱さは、数字には不要だ。
翌朝。 エレンは、サイラスを呼び出した。
影のように現れた青年を、エレンは冷たい、主の目で見据えた。
「お呼びでしょうか」 「サイラス。……ロラン様から預かっている封筒を出しなさい」
サイラスは、わずかに躊躇った。 「……何のことでしょうか」 「見せなさい」
エレンの威圧感。商会の女王としての重圧に、サイラスはついに懐から封筒を取り出した。 エレンは中身を素早く確認し、すぐに封を閉じた。
「わかりましたわ。……この件、私が全て把握しました」 「ですが――」
「ロラン様の指示通り、あなたはゾフィア様へこれを届けなさい。……ただし、内容については誰の耳にも入れないこと。商会の情報網からも、私が消しておきます」
エレンの目が、有無を言わさぬ光を放つ。 「……承知いたしました」
サイラスが去り、エレンは再び独りになった。
窓の外を見上げる。 かつてロランと見た景色。 そこには、美しい青空が広がっている。 けれど――ロランには、もうこの青は見えない。
(ロラン。……あなたが失ったものは、私が全て預かります)
色も。味も。匂いも。 そして――あなたの笑顔さえも。
エレンは、赤い帳簿に新しい記録を加えた。 『サイラスへの指示完了。物流の最適化、継続』
「私は、あなたの盾になりますわ」 彼女は、静かに誓う。 「たとえ、あなたが私を忘れたとしても。私は、あなたを覚えています」
商人は、損な取引はしない。 だから、これは彼女にとっての、人生最大の勝負。
(あなたが生き延びる確率:28.3%) (私が、それを百パーセントまで押し上げる確率:……不可能ではないわ)
そして。
(あなたが、私を愛してくれる確率:……計測不能)
エレンは、自嘲的に笑った。 「……それでも、構いませんわ」
あなたが、この世界で生きていてくれるのなら。 それだけで、この投資は「黒字」なのだから。
朝日が、執務室に差し込み始めた。 新しい一日の始まり。 エレンは、今日も働く。 秘密を守るために。ロランの命を、繋ぎ止めるために。
机に残された赤い帳簿。 その裏表紙には、小さな文字でこう刻まれていた。
『あなたの望み通り、魔王の補給官になりましょう』
エレン・ローウェルの、静かな、けれど苛烈な決意が、そこに宿っていた。




