第7話:決戦前夜
決戦の前日。 アイギス砦は、かつてない活気と緊張感に包まれていた。
兵士たちは皆、ロランの指示に一糸乱れず動いている。 城門前の巨大な落とし穴を完成させ、城壁の上には油を満たした壺を並べ、数千本の火矢を検品する。
誰もが真剣な面持ちで、黙々と作業に没頭していた。 そこにはもう、「どうせ死ぬ」という泥のような諦めはない。 代わりにあるのは――「生き延びる」という、鋼のような強い意志だ。
ロランは城壁の上から、その様子を静かに見渡していた。 彼の視界には、常に薄く青いグリッドが表示されている。
『タクティカル・ビュー』――常時起動モード。 砦の構造、兵の配置、残存物資の量。 すべてがリアルタイムで更新され、彼の脳へと直接流し込まれる。
だがその代償として、脳を刺すような鋭い激痛が、絶え間なく続いていた。
「主様」
不意に、リーナが隣に現れた。 彼女は心配そうに眉をひそめると、ロランの額へそっと手を伸ばす。
「…… また、熱い」
「大丈夫です。これくらい、なんてことは……」
「嘘」 リーナはいつものように、短く、拒絶の余地なく否定した。 そして懐から小さな布袋を取り出し、中身を差し出した。
「これ」
「何ですか、これは?」
「薬草。熱、冷やす効果。 …… 魔力はないけど、効く」 袋の中には、青みがかった瑞々しい葉が数枚。 「額に貼って。…… 少しだけ、楽になるから」
「…… ありがとうございます」 ロランは、リーナの差し出した薬草を受け取った。 彼女の不器用で、けれど真っ直ぐな気遣いが、何よりも嬉しかった。
「リーナは、本当に優しいですね」
「…… 違う」 リーナは僅かに顔を赤らめ、視線を逸らした。 「主様が、必要。…… それだけ」
「必要、ですか」
「主様がいないと、みんな死ぬ。…… だから、私が主様を守る」 リーナの言葉は、いつも驚くほど率直だ。 けれどその奥には、凍てついた心を溶かすような温かさが宿っていた。
「明日、頑張る。主様の作戦…… 絶対に成功させる」
「ええ。一緒に、生き延びましょう」 ロランの言葉に、リーナは小さく、力強く頷いた。
夕刻。 食堂では、ガルドが「特別な夕食」を用意していた。 ありあわせの材料で作られた、温かいスープと焼きたてのパン。
「さあさあ、野郎ども! 残さず食えよ!」 ガルドの豪快な声が、石造りの食堂に響き渡る。 「明日は大戦だ! 腹が減っちゃ、帝国軍をぶん殴る力も出ねえぞ!」
兵士たちが次々と席に着く。 その横顔には、死地を前にした緊張と、それを上回る決意が入り混じっていた。
ロランも、アルベルトと共に卓を囲んだ。
「ロラン、ちゃんと食べてね。君は考え始めると、すぐ食事を忘れるから」 アルベルトが、甲斐甲斐しくスープの椀を差し出す。
「…… 善処します」 ロランは苦笑しながら、スプーンを手にした。 温かなスープが、喉を通る。 ガルドの料理は、不思議と昂ぶった神経を落ち着かせてくれた。
「先生」 隣に座ったハンスが、ボソリと声をかけてきた。 「…… 明日、本当に大丈夫なんだろうな」
「『絶対』とは言えません」 ロランは飾らず、正直に答えた。 「ですが、打てる手はすべて打ちました。あとは――皆さんを信じるだけです」
「俺たちを、信じる…… か」 ハンスは自嘲的に笑った。 「追放された貴族の坊ちゃんに、使い捨てのゴロツキ兵。…… 普通、そんな連中を信じるなんて、あり得ねえよな」
「ですが、僕は本気で信じていますよ」 ロランはハンスを見つめ、静かに言い切った。 「あなたたちは強い。魔法がなくても、高貴な血統がなくても――一人の人間として、誰よりも強い」
ハンスは虚を突かれたように目を見開き、やがて照れくさそうに頭を掻いた。 「…… ありがとよ、先生。 …… 死なねえよ。 絶対にな」
夜。 ロランは一人、静まり返った城壁にいた。 明日の作戦を、脳内で何度もシミュレートし続ける。 敵の数、天候、心理状態、風向き。 膨大な変数を演算し、勝利という唯一の解を追い求めて。
背後から、軽やかな足音が近づいてきた。 振り向くと、そこにはアルベルトが立っていた。
「眠れないのかい?」
「ええ。明日のシミュレーションを、少々」
「僕もだよ」 アルベルトはロランの隣に腰を下ろした。 二人はしばらく、言葉を交わさず夜空を見上げた。 降るような星々が、静寂の中に輝いている。
「ロラン」 アルベルトが、不意に静かな口を開いた。 「君は…… どうして、ここまでしてくれるんだ?」
「…… と、言いますと?」
「君にはこの砦を守る義務なんてない。僕たちを見捨てて逃げ出すことだって、できたはずだ」 アルベルトの碧い瞳が、疑問の色を湛えてロランを映す。 「でも、君は残った。自らの身を壊してまで、僕たちのために」
ロランは少し沈黙し、それからポツリと答えた。 「…… 自分でも、よくわからないんです」
「わからない?」
「最初は、ただ自分が生き残るために必要だと思った。…… ですが、今は」 ロランは眼下に広がる、寝静まった砦を見下ろした。 「みんなを…… この砦の人たちを、死なせたくない。 ただ、そう思うんです」
「それだけかい?」
「ええ。それだけです。 …… ですが、僕にとってはそれが、生まれて初めて持った『大切なもの』なんです」
アルベルトは驚いたようにロランを見つめ、やがて深い感銘を受けたように微笑んだ。 「君は…… 本当に優しいんだね。 君は、誰よりも人を大切にしている」
「そうでしょうか」
「ああ、間違いないよ」 アルベルトは、決然とした表情で夜空を見据えた。 「ロラン。もし…… もし僕たちが明日を生き延びたら」
「生き延びます。…… 必ず」 ロランは確信を込めて断言した。
「…… うん。 なら、約束しよう。 生き延びたら、一緒に――この国を変えよう」
「国を、ですか」
「そう。魔力がすべてじゃない。 血筋がすべてじゃない。 人の価値は、もっと別のところにあると。 …… それを証明できる国を、君と一緒に作りたいんだ」
アルベルトの瞳に、王者の輝きが灯っていた。 「君が教えてくれたんだ。魔法がなくても、知恵と勇気があれば、人は強くなれるってことを」
ロランは、その言葉に深く魂を揺さぶられた。 この王子は、本気だ。 自分のような零級者の言葉に、本気で国を賭けようとしている。
「…… わかりました。 約束しましょう」 ロランはアルベルトの差し出した手を、力強く握り返した。 「一緒に、この国を変えましょう」
その誓いは、冷たい夜風の中で、固く、重く結ばれた。
――そして。 夜明け前、静寂は激しい警鐘によって引き裂かれた。
――カン、カン、カン、カンッ!
心臓を叩くような金属音が、砦全体を震わせる。
「来たぞッ! 帝国軍だッ!」
見張り台からの絶叫。 兵士たちが一斉に跳ね起き、持ち場へと駆け出す。
ロランは既に、城壁の最前面に立っていた。 北の地平線が、重厚な黒い波によって埋め尽くされている。
バルムンク帝国軍、総勢五千。 統制の取れた足音が、大地を揺らしながら迫り来る。 その中心には、あの巨大な破城槌。
「全員、配置につけッ!」 ハンスの号令が飛ぶ。 リーナは既に弓を構え、ガルドは前衛の盾を支えている。
「始まるね、ロラン」
「ええ。…… 計算通りに」
ロランの視界が、爆発的な青い光に満たされた。 ――タクティカル・ビュー、フルブースト。
世界が数式へと解体される。 敵の速度、隊列の密度、破城槌の重量慣性、地面の硬度変化。 膨大なデータが火花を散らし、唯一無二の「勝利へのパス」を導き出した。
「来ます。…… 全員、僕の合図に従ってください」
帝国軍が射程距離へと肉薄する。 破城槌を運ぶ兵士たちが、偽装された落とし穴のエリアへ足を踏み入れようとした。
「…… まだ。 …… 引きつけて」 ロランは冷徹に、その時を測る。 破城槌の重心が、穴の中央へと差し掛かる。
十メートル、五メートル、三メートル――。
「今だッ!!」
ロランの叫びが響いた、その瞬間。
――バキバキバキバキッ!!
凄まじい破砕音と共に、地面が消失した。 偽装板が砕け散り、巨大な陥穽が口を開ける。 破城槌を支えていた数十人の兵士たちが、なす術なく穴の底へと落下していった。
「うわあああああッ!?」
悲鳴が重なり合い、そして――。 ゴォォォォォンッ!! 鋼鉄の塊である破城槌が、穴の底で無様に横転した。
「やったぁぁぁッ!!」 城壁に狂喜の叫びが上がる。
だが、ロランの瞳に油断はない。 「まだです! 第二波が来ます、動揺するな!」
予測通り、帝国軍の別動隊が落とし穴を避けるように左右へ広がり、突撃を開始する。 だが、それこそがロランの描いた誘導だ。 敵は回避しようとした結果、さらに密集した隊列へと押し込められていた。
「油を撒けッ! 密集した地点を狙え!」
城壁から油の詰まった壺が雨あられと投げ落とされる。 叩きつけられた壺から粘り気のある油が溢れ、帝国兵たちの鎧を無情に濡らしていく。
「火矢、放てッ!!」
ロランの合図と同時に、夜明けの空を数千の火の筋が埋め尽くした。 それが油まみれの敵陣に突き刺さった、その瞬間。
――ゴォォォォォッ!!
爆発的な炎が大地を舐めた。 逃げ場のない密集地帯は一瞬にして火の海と化し、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がる。
だが、ロランの脳は既にその光景すら「過去のデータ」として処理していた。 額からどろりと鼻血が垂れ、頭は焼き切れるほどに熱い。
「次、魔導砲が来ます。全員、北東の退避ポイントへ移動!」
ロランの神懸かり的な指揮に、兵士たちはもう微塵の疑いも持たない。 ただ、自分たちの「神」となった青年の言葉に従い、死地を駆け抜ける。




