閑話:金の王冠 〜アルベルト・即位式の日〜
王都ルミナス。 即位式の朝、空は抜けるような青に晴れ渡っていた。
白亜の王宮が朝日を浴び、白銀に輝いている。 アルベルト・フォン・レガリアは、戴冠の間の前室で、一人鏡の前に立っていた。
鏡の中にいるのは、純白の式典用礼装を纏った自分。 胸元には金糸で刺繍された双頭鷲の紋章。 そして、傍らの台座には、まだ誰の頭も飾っていない黄金の王冠が置かれている。
レガリア王国、三百年の歴史の重み。
(……これを、僕が背負うのか)
アルベルトは、自分の顔をじっと見つめた。 金髪に碧眼。母エリザベスに似た整った顔立ち。 だが、その瞳の奥には、拭い去れない深い疲弊が澱んでいた。
「アルベルト様」
扉がノックされ、侍従の声が静寂を破る。
「お時間でございます」 「……ああ。わかった」
アルベルトは深く、長く息を吐き出した。 そして、迷いを断ち切るように扉を開く。
外では、侍従たちが隙のない動作で整列していた。 彼らは主君の姿を認めるなり、一斉に深く頭を下げる。
「新王陛下、おめでとうございます」 「ありがとう。……行こうか」
短く頷き、歩き出す。 だが、その胸にあるのは喜びではない。 胃の奥を石で埋められたような、逃げ場のない重圧だった。
戴冠の間へと続く長い廊下。 壁には、歴代の王たちの肖像画が並び、新王を品定めするように見下ろしている。
初代の英雄。五代目の名君。 そして――父、ヴィクター三世。
アルベルトは、父の肖像の前で足を止めた。 厳格な面差し。だが、記憶の中の父の目は、いつもどこか慈愛に満ちていた。
(父上……)
アルベルトは心の中で問いかける。 (僕は、あなたのような王になれるでしょうか。……この国を、守れるのでしょうか)
肖像画は答えない。 ただ、静かに微笑んでいるように見えるだけだった。
やがて、戴冠の間の大扉が見えてきた。 黄金の装飾が施された荘厳な門が、ゆっくりと左右に開かれる。
その瞬間――。 鼓膜を震わせるほどの轟鳴が、王宮を揺らした。
「新王陛下、万歳!!」 「アルベルト王、万歳!!」
戴冠の間を埋め尽くした数千の群衆。 貴族、騎士、商人、そして民衆の代表。 数多の視線が、熱狂と期待を孕んでアルベルトに突き刺さる。
(……重いな)
一瞬、足が竦みそうになる。 だが、アルベルトは歩みを止めなかった。 深紅の絨毯を一歩ずつ踏み締め、玉座の前へと進む。
大司祭が、至宝である王冠を捧げ持った。
「アルベルト・フォン・レガリア」
老司祭の声が、静まり返った広間に荘厳に響き渡る。
「あなたは、この王国を不磨の盾となって守ることを誓いますか?」 「誓います」 「あなたは、民を愛し、法と正義を執行することを誓いますか?」 「誓います」 「あなたは、その命を賭して、この国を光へと導くことを誓いますか?」 「誓います」
迷いのない返魂。 大司祭が、王冠をアルベルトの頭上へと戴せた。 黄金の輝きが、彼の金髪と重なり、新たな時代の幕開けを告げる。
「ここに宣言する! アルベルト・フォン・レガリアは、レガリア王国第百七代国王である!」
爆発するような歓声。 鳴り止まない拍手。
アルベルトはゆっくりと立ち上がり、玉座へと腰を下ろした。 初めて座る、王の座。 それは驚くほど硬く、冷たく――そして、絶望的なまでに重かった。
群衆の笑顔を見渡しながら、アルベルトはふと思う。
(僕が、今ここに座っていられるのは――)
その脳裏に浮かぶのは、一人の少年の姿。 ロラン・フォン・アシュベル。
魔力を持たず、剣も振れず。 ただ自らの脳を焼き切り、五感を一つずつ差し出しながら、自分をここまで押し上げた軍師。
(君が、僕にこの冠を被せたんだ、ロラン。……君の人生と引き換えにして)
胸が、締め付けられるように痛んだ。
即位式の喧騒がようやく収まった夕暮れ。 アルベルトは、王としての最初の一歩を刻むべく執務室へ向かった。
扉を開けると――そこには、やはり彼がいた。
窓際の淡い光の中で、地図を見つめるロラン。 色彩を失い、灰色の階調のみとなった世界で、彼は今日も「演算」を続けている。
「ロラン」
声をかけると、ロランは音もなく振り向いた。
「おめでとうございます。……陛下」
ロランが深く頭を下げる。 その動作は、以前よりもどこか滑らかさを欠き、機械の予備動作のように無機質だった。
「やめてくれ」
アルベルトは駆け寄り、ロランの肩を強く掴んだ。 「僕たちの間で、そんな堅苦しいのはなしだ。いいだろう?」
「……ですが、あなたは王です」 「それでも、僕は君の親友だ。それは王冠を被っても変わらない」
アルベルトの瞳が、切実な光を宿す。 「ロラン、君は……。僕のために、どれだけのものを捨てたんだ」
ロランは答えなかった。 ただ、ハイコントラストな灰色の視界で、アルベルトの顔を「観測」している。
「僕は、君に一生返せないほどの借りがある。命も、この地位も、すべて君が繋いでくれたものだ」
アルベルトの瞳に、熱いものが浮かぶ。 「いつか、必ず君を救う。君が失った色も、味も……すべて、僕が取り戻してみせる。それが、僕のこれからの戦いだ」
ロランは、その言葉を聞いて微笑もうとした。 だが、引き攣った頬の筋肉は、ただ歪な形を作るだけだった。 感情を司る神経さえも、もはや正常な出力を拒んでいる。
「ありがとうございます。……ですが、大丈夫ですよ」 「大丈夫なわけないだろう!」
アルベルトが叫ぶ。 「色も見えず、味もわからず、匂いさえ消えた! そんな体で、まだ戦うというのか!? もういい、もう休んでくれ……! 僕は、これ以上君が欠けていくのを見たくないんだ!」
ロランは、アルベルトの手をそっと握り返した。
「……アルベルト様」
感情の消えかけた、平坦な声。
「僕は、まだ大丈夫です。……温度だけは、わかりますから」
ロランの指先が、アルベルトの肌に触れる。 「あなたの手の温もりが、伝わってきます。……それだけで、僕はまだ『人間』でいられる」
アルベルトは、たまらずロランを強く抱きしめた。 黄金の王冠が、カチリと音を立てて机に置かれる。
王と軍師。 支える者と、支えられる者。 二つの魂が、音のない部屋で静かに交錯した。
夜。 バルコニーに立ったアルベルトは、眼下に集まる民衆を見下ろしていた。 新王の言葉を、誰もが息を呑んで待っている。
アルベルトは、肺が破れんばかりに深く息を吸い込んだ。
「民よ!!」
その声は、広場の隅々にまで響き渡る。
「私は今日、王となった! 私は、この国を、この腐りきった秩序を根底から変える!」
民衆が、波のようにどよめく。
「魔力のあるなしで、人の価値を決めさせはしない! 誰もが、その才を平等に発揮できる世界を! 誰もが、明日の食事を憂うことなく、笑って過ごせる国を!」
アルベルトの瞳には、かつての弱気な王子の影はなかった。 「私は誓う! この命を賭して、君たちが幸せに生きられる世界を創ると!」
地鳴りのような歓声が爆発した。 「新王万歳!!」 「アルベルト王、万歳!!」
人々の希望に満ちた叫び。 だが、アルベルトの心には、消えることのない罪悪感が居座っていた。
(これが、君が求めた景色だ。……だが、君にはこの熱狂が見えない)
色彩のない世界で、ただ独り戦い続ける軍師。 アルベルトは心に深く誓う。 この平和の先に、必ずロランを救う「奇跡」を見つけ出すと。
執務室に戻ると、ロランはまだ机に向かっていた。
「ロラン、もう休むべきだ」 「いいえ。神聖エル=ナフ教国が、不穏な動きを見せています」
ロランの瞳が、冷徹な光を宿す。 「三日後、使節が到着します。……陛下、新たな戦いが始まろうとしています」
アルベルトは唇を噛んだ。 王冠を手に入れても、まだ安息は訪れない。 ロランを戦いから解き放つことは、まだ許されないのだ。
「……わかった。ならば、僕も手伝おう」 「ですが、陛下は即位の儀で――」 「王だからこそ、親友を一人で戦わせるわけにはいかない」
アルベルトは、机の上の地図を一緒に覗き込んだ。 「僕たちは、仲間だろう?」
ロランは一瞬、間を置いてから、微かに頷いた。 「……ええ。仲間です」
夜が更けるまで、二人は戦略を練り続けた。 王と軍師。光と影。 相反する二つの存在が、一つの国を背負って進み出す。
広い王の私室で、アルベルトは初めての夜を迎えた。 豪華な天蓋付きのベッド。柔らかな毛布。 だが、彼の意識は冴え渡り、眠りなど訪れそうになかった。
(兄上たちは……どこで何を見ているだろうか)
アルベルトを殺そうとした兄たちの顔が浮かぶ。 彼らさえも救える王になれるのか。自問自答は、終わらない。
翌朝、執務室へ向かったアルベルトは、絶句した。 ロランが、昨夜と同じ姿勢で地図を見つめていたからだ。 一睡もせず、彼は演算を続けていた。
「ロラン……! 一晩中、起きていたのか!?」 「ええ。睡眠は、優先順位を下げました」
ロランが顔を上げる。その目は完全に虚無を湛え、焦点が合っていない。 もはや、生物としての維持機能さえも演算のリソースに回している。
「少し、休もう」 「ですが、教国の動向が――」
「これは、王としての命令だ」
アルベルトの声が、重く響く。 「軍師ロラン。休息を命じる。……寝てくれ。死なれては困る」
ロランは、数秒の沈黙の後、パチリと瞬きをした。 「……わかりました。命令ならば」
ロランは椅子に深く腰掛け、ゆっくりと瞼を閉じる。 その表情は、眠っているというよりは、機械が沈黙したかのようで――。
アルベルトは、彼の冷たくなった指先に手を添えた。
(いつか……必ず君を、人間に戻してあげる)
窓の外では、新しい治世の陽光が差し始めていた。 レガリア王国の新王、アルベルト。 そして、彼を地獄の淵で支える無彩色の軍師。
二人の、本当の戦いが幕を開ける。




