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『神の視点 ~零式創世戦記~』  作者: noanoa
第9章:味覚の消失

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第65話:味覚・嗅覚の消失


――――――それから、五日が過ぎた。 ――――――


朝――。


地下水道の厨房には、夜明け前から火の爆ぜる音が響いていた。 ガルドは一人、無機質な灰色の食材たちと対峙している。


柔らかいもの。 固いもの。 温かいもの。 冷たいもの。


味覚を奪われたロランのために、料理人ができる「戦い」のすべて。 ガルドはそれを、一皿の盤面に叩きつけようとしていた。


「……よし」


完成した朝食が、ロランの部屋へと運ばれる。


温かいスープ。 指先を押し返すほどに柔らかいパン。 小気味よい音を約束する、カリッとした焼き菓子。 そして、喉を滑り落ちる冷たい果実のゼリー。


ロランは窓際で、何かを書き綴っていた。


「ロラン様、朝食です」 「……ありがとうございます、ガルドさん」


振り向いたロランの顔には、もはや人間らしい生気は薄い。 灰色の世界に溶け込むような、無機質な横顔。


ガルドは努めて明るい声で、料理を解説した。


「今日は食感の『緩急』を意識しました。まず、そのスープで喉を温めてください。次に、焼き菓子の歯ごたえを」


「……わかりました」


ロランは、歪な笑顔を作ろうとして、すぐに諦めた。 そして、スプーンを口に運ぶ。


温かい。 そして――柔らかい。 舌の上に広がる、確かな「質感」の刺激。


パンをちぎり、焼き菓子を噛み砕く。 カリッ、という硬質な音が、骨を伝って脳へ響く。 最後は、氷のように冷たいゼリー。


味はない。匂いもない。 かつて知っていたはずの情報の九割が、損なわれている。 だが――。


「ガルドさん」


ロランが、掠れた声で言った。 「これ……『美味しい』……気がします」


ガルドは、視界が滲むのを必死に堪えた。


美味しい、気がする。 それは味を理解した言葉ではない。 ロランの脳が、仲間の献身という「熱」を受け取り、必死に作り出したエラーめいた錯覚だ。


「……ありがとうございます、ロラン様。これからも、いくらでも工夫して見せますよ」


ガルドは深く頭を下げ、部屋を後にした。 その拳は、わななき、握りしめられていた。


昼過ぎ。 ロランは一人、机に向かっていた。


羊皮紙に文字を刻み、数式を組み立てる。 冷徹な指示。緻密な計画。


そして――書き終えた瞬間、彼はその内容を「消去」した。


(……何を書いていたか。忘れるように、書く)


これは、ゾフィアへの密命。 あるいは、サイラスとカリンを動かすための「再誕計画」の断片。


ロランは、タクティカル・ビューという自らの「神の視点」さえも欺くため、情報を外部メモリ(紙)へ移した瞬間に、自らの記憶領域から削除する。 情報の漏洩を防ぐための、最も残酷なセキュリティ。


封筒に紙を入れ、無記名のまま引き出しに隠す。 明日には、影がそれを回収し、計画は進むだろう。


自分が何を企んでいるのかさえ、自分にはわからない。 今のロランは、ただの「演算の実行端末」へと成り果てようとしていた。


夕方。 リーナが部屋を訪れ、ロランの手を引いた。


「主様。お外、いこう?」 「外ですか?」 「うん。夕焼け……見せたいの」


ロランは、僅かに躊躇ためらった。 もう、世界に色はない。 外に出ても、そこにあるのは光度の異なる灰色の階調だけだ。


だが、リーナの手の温もりが、あまりに切実だった。 「……わかりました」


二人は丘の上へと登った。 眼前に広がる、巨大な灰色の空。


「主様、みて……きれい」


リーナが、空の彼方を指差す。


「オレンジ色。赤色。ピンク色。……雲の端っこが、金色に光ってるよ」


ロランは、その声を聞きながら、色を失った空を見つめた。 そこに輝きはない。色彩はない。 だが――。


「……そうですか。それは、きっと美しいのでしょうね」


リーナの言葉が、ロランの脳内に「色」を描画していく。 彼女の感性こそが、今のロランにとっての唯一の色彩感覚センサーだった。


「主様。私、ずっと一緒にいるから」


リーナが、ロランの冷えた手を、自分の両手で包み込んだ。 「どんなに、主様が変わっても。……私だけは、ずっと一緒」


「…………」


感情が凍りついているはずなのに。 胸の奥で、微かな熱が爆ぜたような気がした。


「ありがとう、リーナ」


ロランは小さく呟き、彼女を抱き寄せた。 灰色の夕闇。 けれど、腕の中の「熱」だけは、確かにそこに存在していた。


夜。 ロランは、再び机に向かっていた。


指示。命令。計画。 また一つ、情報の断片を紙に吐き出し、記憶を消去する。 引き出しに溜まっていく、自分でも中身を知らぬ封筒。


窓の外には、星一つ見えない灰色の夜空が広がっている。 かつて見上げた夜空が、どんなに美しかったかも、もう思い出せない。


(僕は……まだ、人間でいられるのだろうか)


味覚。嗅覚。色覚。感情。 一枚ずつ、魂の外装が剥がれ落ちていく。 けれど――。


温もりだけは、まだ、指先に残っている。 リーナの熱。アルベルトの決意。ガルドの執念。


(もう少しだけ。……すべてが終わるまでは、『人間』でいさせてください)


無機質な祈りが、地下水道の闇に消えていく。


ロランは止まらない。 神聖エル=ナフ教国――。 大陸の裏側でうごめき始めた、新たなる敵。


次の戦場で、彼は何を支払うことになるのか。 灰色の世界の中、ロランはただ、独り、次なる演算を開始した。





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