第64話:アルベルトとの対話
朝――。 地下水道の隠れ家に、ガルドの用意した食卓の音だけが響く。
並べられたのは、温かいスープとパン。 立ち上る湯気さえ、ロランの視界には煤けた灰色の影にしか見えない。
ロランは、重いスプーンを手に取った。 スープを一口、流し込む。
温かい。 それだけだ。
味はない。完全に、失われた。 鼻を抜けるはずの小麦の香りも、今はもう、記憶の残滓さえ呼び起こさない。 ただ「熱を帯びた液体」が喉を通り、胃へ落ちていく。
(もはや、何も届かない……)
それは食事ではなく、肉体を維持するための無機質な燃料補給。 ロランは黙々と、スープを飲み続けた。 そうしなければ、明日を生きるための「演算」が止まってしまうから。
「主様」
隣に座ったリーナが、じっとロランの横顔を見つめていた。
「大丈夫……?」 「ええ。問題ありません」
即座に答える。 だが、リーナは震える声で小さく呟いた。
「主様、嘘ついてる。……すごく、冷たい顔してる」
ロランは、何も答えられなかった。 リーナは正しい。自分は、大丈夫などではない。 だが、それを認めた瞬間に、張り詰めた精神の糸が切れてしまうことを予感していた。
「リーナ。心配しないでください」
ロランは、リーナの頭を撫でた。 「僕は、大丈夫です」
リーナの瞳に、堪えきれない涙が浮かぶ。 それでも彼女は何も言わず、ただ、ロランの手を握りしめた。 その、縋るような「熱」だけが、唯一の確信として伝わってきた。
昼過ぎ。 部屋を訪れたアルベルトは、かつてないほど重い沈黙を纏っていた。
「ロラン。……少し、話がある」 「どうぞ、アルベルト様」
ロランは椅子を勧めた。 アルベルトは座り、しばらくの間、何かを堪えるように俯いていた。
そして――。 震える唇から、爆弾のような問いが放たれた。
「ロラン、君は――」
アルベルトの瞳が、射抜くようにロランを捉える。
「……君は、まだ人間なのか?」
その問いは、ロランの思考回路を激しく揺さぶった。 だが、表情には出ない。 もはや、顔の筋肉を「驚き」のために動かす余裕さえ失っている。
「どういう意味ですか?」
「君は、もう何も感じていないんじゃないか?」
アルベルトの声が、悲鳴のように響いた。
「味も、匂いも。そして……喜ぶことも、悲しむことも。……心を動かすことさえ、忘れてしまったんじゃないか?」
ロランは、沈黙した。 灰色の視界の隅で、タクティカル・ビューがアルベルトのバイタルサインを解析する。 激しい動悸、血圧の上昇、精神的な過負荷。
……解析。それしか、できない。
「そうかもしれません」
ロランは、自分でも驚くほど平坦な声で答えた。
「もう、美味しいとは感じられません。花の香りも、草木の匂いも。そして……」
空虚な瞳をアルベルトに向ける。
「笑うことも、泣くことも、できなくなりつつあります」
アルベルトが、激しく拳を握り締めた。
「なぜだ……! なぜ、そこまでして……!」 「僕には、これしかないからです」
ロランは、静かに答えた。
「魔力もなく、剣も振れない。……演算だけが、僕に許された唯一の武器です」 「だからこそ、これを使わなければ――僕に価値はありません」
アルベルトが立ち上がり、ロランの肩を強く掴んだ。
「違う! 君はもう、十分すぎるほど戦った!」 「アイギス砦を守り抜き、エモンを救い……。もう、いいんだ! ロラン、もう休んでくれ……!」
「できません」
「ロラン――!!」
「アルベルト様」
ロランの声が、鋭く場を制した。
「あなたは、王になるべきお方です。ですが、今の歪な王国では……あなたは、決して王になれない」
ロランは、アルベルトの手を強く、拒絶するように握り返した。
「だから……僕が、道を作ります。あなたが、正しき王として座るための道を」
アルベルトの頬を、涙が伝った。
「君は……。なぜ、そこまでして僕のために……」 「……あなたが。僕の、たった一人の『友達』だからです」
アルベルトの目が、驚愕に大きく開かれる。
「友達……?」 「ええ」
ロランは、微笑もうとした。 だが、表情筋はもはや思い通りには動かない。 頬が微かに引き攣り、自嘲とも、慟哭とも取れる歪な形を作る。
「あなたは、僕を対等に扱ってくれた。魔力がなくても、価値があると言ってくれた」
声が、わずかに、人間らしい震えを帯びた。
「だから僕は……あなたのために戦いたい。僕自身が、壊れてしまったとしても」
「ロラン……っ!!」
アルベルトは、親友を突き飛ばすように抱きしめた。 その衝撃と共に、強烈な「熱量」がロランの胸に伝わる。
「僕は、君を失いたくないんだ……!」 「大丈夫です」
ロランは、アルベルトの背中に手を回した。 「僕は、まだ……ここに、いますから」
夕方。 アルベルトは一人、冷たい地下水道の廊下で壁に背を預けていた。
親友が、壊れていく。 自分のために、人間であることを捨てていく。 その残酷な現実を前に、王子の心は砕け散りそうだった。
そこに、影のようにエレンが現れた。
「アルベルト様。少し、よろしいですか?」 「……エレンか」
アルベルトは力なく顔を上げた。 「エレン。君は……ロランのことを、どう思っている」
エレンは、しばらく視線を落とし、慈しむように、そして残酷に答えた。
「彼は、天才ですわ。……ですが、自分という資産を犠牲にしすぎています」 「そうだ……。僕は、それを止められないんだ」
「殿下」
エレンの瞳に、商人のそれではない、強い光が宿る。
「あなたにできることは……彼に『休め』と乞うことではありませんわ」 「……?」 「ロランが守ろうとしているものを、誰よりも大切にすることです」
エレンは一歩近づき、王子の目を真っ直ぐに見据えた。
「彼は、あなたを王にしようとしている。ならば……あなたは、最高に『良い王』になりなさい。それが、彼への唯一の、そして最大の恩返しですわ」
アルベルトは、目を見開いた。 涙に濡れていた瞳に、青い炎のような決意が宿る。
「……わかった。僕は、必ず王になる」
声から、迷いが消えた。
「ロランが拓いてくれた道の先に、誰よりも正しき玉座を築いてみせる」
エレンは、満足げに微笑んだ。 「それでこそ、私たちが投資する価値のある王ですわ」
その夜――。 ロランは一人、暗い地下水道を歩いていた。 『冷却冠』からは、脳を凍らせるほどの冷気が吐き出されている。
(アルベルト様……)
ロランは、暗闇の中で反芻した。 友の涙。友の温もり。
(あなたは、優しすぎます……)
だが、今の自分には、その優しさを「幸福」として処理する感情が、もう残っていない。 喜びも、悲しみも、すべてが情報の断片として素通りしていく。
それでも、掌に残る「熱」だけは、確かにそこにあった。
(もう少しだけ……。王宮を、父を、すべてを終わらせるまで)
ロランは、無機質な祈りを捧げた。
(もう少しだけ……僕を、『人間』でいさせてください……)
その願いは、誰にも届くことなく。 灰色の闇の中へと、静かに溶けていった。




