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『神の視点 ~零式創世戦記~』  作者: noanoa
第9章:味覚の消失

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第63話:書面による指示


朝。 地下水道の隠れ家を、湿った薄暗がりが満たしている。


ロランは一人、狭い自室でペンを走らせていた。 羊皮紙に刻まれるのは、精密な数式、魔導回路の図解、そして聞き慣れない薬草の名。


『セレスの涙』 『銀月草』 『冬眠の根』


だが――不意に、ペンの動きが止まった。


(……何を、書こうとしていたんだ?)


ロランは、自分の手元を見つめた。 そこには、今しがた自分が記したはずの文字列がある。 しかし、その意味が、文脈が、脳の網膜から滑り落ちていく。


(なぜ、こんなものを。何のために……)


記憶の海に潜ろうとするが、そこにあるのは冷たい灰色の霧だけだ。 ただ、紙の端に『これをゾフィアへ』と、自分の筆跡で走り書きが残されていた。


(ああ……そうだ。ゾフィアさんに、何かを託すはずだった)


だが、その「何か」の正体が思い出せない。 ロランは無機質な恐怖を覚えながら、その紙を折り畳み、封筒へと納めた。


ノックの音が響く。


「ロラン様」 「……入ってください、サイラス」


影のように現れたサイラスに、ロランは封筒を差し出した。


「これを、ゾフィアさんに。それから――」


もう一枚、薬草のリストを渡す。


「カリンさんにこれを。このリストにある薬草を至急集め、ゾフィアさんに届けるよう伝えてください」


「……承知いたしました」


サイラスは、何も問わなかった。 あるじの瞳に宿る、どこか焦点の合わない危うさを感じ取りながらも、彼はただの「影」として命令を受領する。


「ありがとうございます。頼みますよ」


サイラスが音もなく退出する。 一人残されたロランは、机に手をついた。


(今……僕は、何を頼んだんだ?)


ゾフィアに何かを届ける。カリンに薬草を頼む。 事実は覚えている。 だが、その「目的」が、欠落している。


脳が焼き切れる音を聞いたような気がした。 代償は、容赦なく彼の内側を蝕んでいる。


午後。ゾフィアの工房。 サイラスから封筒を受け取ったゾフィアは、中身を一読し、言葉を失った。


「これは……」


そこには、冷却液の特殊な調合式。 そして、殴り書きのような短いメッセージ。


『私が死んだ後、必要になります。準備を』


ゾフィアは、紙を握りしめた。 ロランは、自分自身が壊れていくことさえも「前提」として、死後の盤面を整えている。


(……バカな子。本当に、最期まで戦い抜くつもりなのね)


ゾフィアは震える手で、その紙を引き出しの奥へと仕舞い込んだ。 ロランから預かった、あの「遺書」の隣に。


「伝えて。……『準備は任せて』と」


夕方。カリンは王都郊外の森へと向かっていた。


「『セレスの涙』に『銀月草』……。珍しいものばかりだけど、ロラン様のためなら!」


彼女は、それが何に使われるかも知らず、ただ純粋な忠誠心で闇の中へと駆けていく。 ロランの「死」を準備していることなど、夢にも思わずに。


その夜。 サイラスから「準備する」というゾフィアの返信を受け取ったロランは、その短いメモを見つめ――。


(……何の、準備だ?)


僅かに、指先が震えた。 思い出せない。どうしても、思い出せない。


だが、胸の奥に残る「義務感」だけが、冷たく彼を急かしていた。 忘れてはならない、大切な何か。 それが、指の間から砂のように零れ落ちていく。


翌朝、ロランはリーナと向かい合っていた。 並べられた朝食。


ロランはスープを口に運ぶ。 ……味が、しない。 昨日まで僅かに感じられた「風味」の残滓さえも、今はもう、完全な虚無へと変わっていた。


ただ、熱い。 それだけの感覚。


「主様? 顔色が悪いよ」


リーナが心配そうに覗き込んでくる。 その銀色の髪も、大きな瞳も、ロランの視界では灰色の階調でしかない。


「……ええ。少し、考え事をしていただけです」


ロランは微笑もうとした。 だが、笑顔の作り方を、脳が拒絶している。


(リーナ……君の名前は覚えている)


心の中で、必死に彼女を繋ぎ止めようとする。


(君が、僕の隣にいてくれたことも。大切な人だということも。……でも)


恐怖が、心臓を冷たく突き刺した。 初めて彼女と出会った時の光景。 交わした最初の言葉。 温かな記憶の断片が、霧の彼方へと消え去っている。


「主様、無理しないで」


リーナが、ロランの手を握った。 温度。 それだけが、今のロランを「人間」として繋ぎ止める最後のいかりだった。


「ありがとう、リーナ」


ロランは、彼女の柔らかな髪を撫でた。 色は見えない。記憶は消えていく。 それでも、手のひらに伝わるこの「熱」だけは忘れたくないと、彼は静かに願う。


灰色の、音のない世界で。 ロランは独り、自分自身が消滅していく足音を聴いていた。





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