第62話:ゾフィアへの密命
深夜。 地下水道の隠れ家を、深い静寂が満たしている。
ロランは一人、ゾフィアの工房へと向かった。 名目は冷却装置のメンテナンス。 だが、本当の目的は、自らの演算機をなだめることではなかった。
工房の重い扉を開けると、青白い魔導光の下でゾフィアが作業台に向かっていた。
「ロラン? こんな時間にどうしたのよ」
不意の来訪者に、ゾフィアが訝しげに振り返る。
「冷却冠の調子が、少し……」
ロランは、慣れない嘘を吐いた。 装置は完璧だ。むしろ、完璧に機能しすぎて、今の彼から「余計なもの」を削ぎ落としすぎている。
「そう? ちょっと見せてみなさい」
ゾフィアの手で冷却冠が外され、無防備な頭部に測定器が当てられる。
「……別に、異常はないわよ。数値も安定してる」 「そうですか……」
ロランは視線を落とした。 灰色の床。影の落ちる隅。
「ゾフィアさん。お願いがあります」 「なによ、改まって」 「出力を……上げてください。脳内温度を、もう少しだけ下げたいんです」
「出力を上げる?」
ゾフィアが眉をひそめる。
「あなたの脳内温度は今、37.5℃。十分に安全圏よ。これ以上冷やせば、意識の混濁や、運動機能に支障が出るわ」 「構いません。……下げたいんです」
ロランの瞳に宿る、静かな、けれど逃れようのない切実さ。 ゾフィアはしばらく彼を見つめ――やがて、短く溜息をついてダイヤルを回した。
「……後で文句言わないでよ」
冷却液の流動音が、高くなる。 ロランの額から脳の深部へ、突き刺さるような「凍てつき」が広がった。
37.2℃……37.0℃……36.8℃……。
脳内のノイズが、消えていく。 演算速度が極限まで落とされ、その代償として――。 奥底に閉じ込めていた「人間」が、息を吹き返した。
(これは……)
ロランは、目を見開いた。 視界は灰色のままだ。だが、胸の奥が、焼け付くように熱い。 仲間の顔。共に過ごした時間。 それを「守るべき資産」ではなく、「愛おしい絆」として、激しい動悸と共に思い出す。
「…………っ」
涙が、あふれそうになった。 自分が何を犠牲にし、何を失おうとしているのか。 冷静に計算しきっていたはずの「悲劇」が、今さらになって彼を激しく揺さぶる。
だが、その瞬間は長くは続かない。 冷却による一時的な機能回復は、すぐに脳の防御反応に呑み込まれていく。
「ロラン? 顔色が真っ青よ。やっぱり中止しましょう」
「……いえ。大丈夫、です」
ロランは、わずかに震える手で懐から一通の封筒を取り出した。 ゾフィアの目の前に、それを置く。
「これを受け取ってください。……僕が、死んだら。その時に、開けてほしいんです」
ゾフィアが、息を呑む。
「死んだら……って、あなた」 「僕は、必ず死にます。代償の支払いは、もう止められない」
ロランの目は、再び平坦な光を取り戻し始めていた。 脳内温度が上昇し、感情が、また効率的な「データ」へと書き換えられていく。
「その時、この手紙に記した計画を、実行してください。……あなたにしか、頼めないんです」
ゾフィアは、震える指でその封筒を手に取った。 紙一枚の厚さしかないはずなのに、呪いのように重い。
「……わかったわ。約束する。あなたが死ぬまでは、決して開けない」 「ありがとうございます」
ロランは頭を下げた。 ゾフィアは、その手紙を作業台の奥深く、最も厳重な引き出しへと隠した。
「ロラン。あなた、本当に……」
ゾフィアの声が、震えている。
「死ぬのが怖くないの?」
ロランは、しばしの沈黙の後、静かに答えた。
「わかりません。……ただ、覚悟だけは、しています」
「馬鹿ね……」
ゾフィアが、ロランの手を握った。 かつては温かかったその手は、冷たく、そして細い。
「ゾフィアさん」
不意に、ロランが呟いた。
「母の顔が……思い出せないんです」 「……え?」 「エレナ・フォン・アシュベル。僕の、母。……名前は覚えている。優しい人だったという記録もある。でも、顔が……。霧がかかったように、ぼやけていく」
ゾフィアは、言葉を失った。 記憶の浸食。 ゾフィアが予見していた代償が、ロランの最も大切な部分を喰らい始めていた。
「大丈夫よ。あなたが忘れても、記録があるわ。私が、語ってあげる」
ゾフィアは、必死に言葉を絞り出した。
「あなたは一人じゃない。リーナも、ガルドも、エレンも、王子も。みんな、あなたを覚えているから」
「……ありがとうございます」
ロランは微笑もうとした。 だが、表情筋の制御が追いつかない。 歪な、悲鳴のような笑みが、彼の顔に浮かんだ。
その夜、ロランが去った後の工房で。 ゾフィアは一人、引き出しの中の手紙を見つめていた。
(何が書いてあるのか……)
開けてしまいたい。 中身を知れば、彼を救う手がかりがあるかもしれない。 けれど、彼女はそれを我慢した。
ロランの覚悟。その「重さ」を知っているから。
「……意地っ張りな子ね、本当に」
ゾフィアは小さく呟き、工房の明かりを消した。 灰色の夜空。二人だけの、残酷な秘密。
翌朝。 ロランは、いつものように機械的な思考と共に目を覚ました。 昨夜、脳を冷やしたことで得た「感情」の断片は、もうどこにも残っていない。
ただ、記憶の欠落だけが、確かな事実としてそこにあった。 母の顔。幼い日の庭の景色。 それらはすべて、灰色のノイズに塗り潰されている。
(母さん……)
思い出そうとする。 脳が空回りする、無機質な感触。
(……これが、次の『支払い』か)
ロランは、感情を動かすことなくその現実を受容した。 大切なものから、砂のようにこぼれ落ちていく。 それでも、彼は止まらない。
止まるという選択肢は、彼の演算回路には存在しなかった。




