第61話:エレンの裏工作
深夜。ローウェル商会エモン支部。 その最深部に位置する私室で、エレン・ローウェルは「戦場」にいた。
テーブルを埋め尽くすのは、膨大な報告書の山だ。 王都の物流記録、貴族たちの金の流れ、人員配置。 エレンが張り巡らせた情報網が吸い上げた、王国の「内臓」の記録である。
「……ふむ」
眼鏡の縁を指先で押し上げる。 ランプの明かりに照らされ、焔を閉じ込めたような髪が微かに揺れた。
「王都の腐敗は、想像以上ですわね。もはや、膿しか出てきませんわ」
エレンの指が、ある書簡を止めた。 大臣ダリウスの不正取引記録。 王都の税収の三割が、彼という肥大したブラックホールに消えている。
「これだけの証拠があれば――」
エレンの唇が、美しく、そして冷酷に弧を描いた。
「ロラン。あなたの計画は、完璧に王手をかけられますわ」
ノックの音が響く。 入室を許すと、部下のマリアが音もなく現れた。
「エレン様、王宮潜入員からの報告です」
差し出されたメモ。そこには晩餐会の招待客リストが記されていた。 エレンは内容を網膜に焼き付けると、満足げに頷いた。
「完璧ですわ。……マリア、明朝、これをロランへ。地下水道の『ネズミの穴』まで届けなさい」
「承知いたしました」
マリアが去り、再び静寂が部屋を支配する。 書類の山を整理していたエレンの手が、不意に、一枚の「異物」で止まった。
「……これは?」
それは、ロラン名義で購入された土地の領収書だった。 王都郊外、名もなき森の端にある、なんの価値もない荒れ地。 投資としての魅力はゼロ。戦略的な重要性も皆無。
ロラン・フォン・アシュベルが、そんな無駄な買い物をした。 エレンの脳内にある「合理的ロラン」のモデルが、激しく警告を発する。
「まさか……」
嫌な予感が、背筋を凍らせた。 王都から離れた、静かな場所。 自分名義ではなく、他者に遺すための準備。
「……自分の『墓所』を、準備しているのですか? ロラン」
指先が震えた。 エレンは迷うことなく、その領収書をシュレッダーへと差し込んだ。 刃が紙を切り刻む、無機質な音が響く。
「……あら。不注意で、貴重な書類を紛失してしまいましたわ」
エレンは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「誰も、見つけることはできません。……ええ、私以外には」
ロランの「最後の我儘」を、エレンは商人としての手段で隠蔽した。 それが彼の望みなら、たとえ残酷な結末であっても、彼女は全力でその舞台を整える。
翌朝、エレンは地下水道の隠れ家を訪れた。 地図を広げるロランの瞳は、昨日よりもさらに彩度が落ちているように見えた。
「エレンさん。おはようございます」
「おはようございます、ロラン。手土産を持ってきましたわよ」
手渡されたリストを受け取るロラン。 その目が、情報の解析を始めた。
「完璧です。これで、盤面は整いました」
「ええ。ですが……ロラン」
エレンは耐えきれず、彼の細い手を握った。 ひんやりとした、温度の低い感触。 まるで、生きている人間ではなく、精巧な魔導人形に触れているような錯覚。
「少しは、眠りなさい。顔色が最悪ですわよ」
「……あまり、眠る必要を感じないんです」
ロランは微笑もうとした。 だが、頬の筋肉が不自然に引き攣り、歪な形を作る。 エレンは、その痛々しさに心臓を握り潰される思いだった。
(ロラン……あなたは、どこまで壊れていくの……)
その日の午後、エレンは地下水道の影で、サイラスと合流した。
「サイラス、ゾフィアへの『荷物』は?」
「……渡しました」
サイラスは、感情を排した声で答えた。 彼もまた、ロランの「影」として、何かに気づいているようだった。
「内容は、見ていません。ですが……ロラン様の覚悟だけは、伝わってきました」
「そう。ならいいわ」
エレンは深く追求しなかった。 ロラン、サイラス、ゾフィア。 彼らの間で進んでいる「禁忌の計画」に、自分が立ち入るべきではない。 商人にできるのは、資金と情報の盾になることだけだ。
夜。エレンは商会の秘密帳簿にペンを走らせていた。 ロランがゾフィアへ流した多額の資金。 カリンに集めさせた、用途不明の「蘇生」にまつわる薬草の数々。
「……あなたは、何かを隠している」
帳簿を閉じ、エレンは窓の外を見上げた。 そこには、美しい星空が広がっている。 けれど、ロランの視界には――何も映っていない。
「あなたが失ったものを、私が全て覚えておきますわ」
エレンの瞳に、熱いものが浮かぶ。 だが、彼女はそれを零さなかった。 泣くのは、全てが終わってからでいい。
「あなたの笑顔も。その歪んだ優しさも。……あなたが人間であった証拠を、私が歴史に刻んで差し上げますわ」
エレンは、再びペンを執った。 ロランの死後、ローウェル商会がどのように動くべきか。 彼が遺したものを、どう守り抜くか。
「私は、あなたの商人ですわ」
静かな決意。
「最高の投資対象で……世界で一番、愛おしい人」
エレンの独白は、冷たい夜の空気に溶けて消えた。 彼女は「盾」になる。 ロランが、最期までロランとして戦い抜けるように。




