第60話:リーナの献身
夜。 地下水道の隠れ家は、静まり返っていた。
ロランは一人、狭い自室で思考の海に沈んでいた。 灰色の壁。灰色の机。 それらは、かつてどんな質感で、何色に塗られていたのだろうか。
明日からの王宮侵入計画。 父、アーサー・フォン・アシュベルとの再戦。 最適解を導き出す脳内シミュレーションを繰り返すほど、ロランの演算熱は上がり、同時に人間としての機能が磨耗していく。
不意に、扉がノックされた。
「主様」
リーナの声だ。 その響きだけは、霧のかかったロランの意識に鮮明に届く。
「入っていい?」 「ええ、構いません」
扉が開く。 リーナが抱えていたのは、一抱えほどの草花だった。 ロランの視界では、それらは「濃い影」の集合体にしか見えない。
「主様、これ。地下道の隙間に咲いてたの」
リーナが花を差し出す。 かつてなら、その色彩に心奪われたかもしれない。 しかし今のロランには、それが花であることさえ、リーナの言葉がなければ判別できなかった。
「……ありがとう、リーナ」
ロランは花を受け取った。 指先に触れる、湿った茎の質感。 かつては「花の香り」と呼んでいたはずのものは、もう、何も感じられない。
リーナがロランの隣に座り、くん、と小さく鼻を鳴らした。
「……主様の匂い、また変わったね」
彼女の声に、隠しきれない悲しみが混じる。
「前よりも、ずっと冷たくなってる」 「匂い、ですか」
ロランは、自分の手首に視線を落とした。 嗅覚機能は、すでに九割が停止している。
「リーナ。今の僕は――どんな匂いがしていますか?」 「……鉄の匂い」
リーナは、逃げ出すこともなくロランの手を握りしめた。
「研ぎ澄まされた、冷たい鉄の匂い。……でも、手は温かいよ」
彼女の目が、暗がりの中で銀色に揺れる。
「匂いは鉄になっても、手は温かい。主様は、ここにいる」
ロランの胸の奥で、何かが疼いた。 温度。 それだけが、今の彼が「生きている」と実感できる唯一の情報。 リーナの手の温もりが、冷え切った計算回路を優しく溶かしていく。
「リーナ……いつも、すまない」 「私、主様が好き。だから、ずっと一緒にいる」
リーナはロランの腕の中に潜り込むように、身体を寄せた。 ロランはその小さな温もりを、壊さないように抱きしめる。
色彩も、味も、匂いも消えた。 けれど、この腕の中に伝わる「熱」だけは、偽りようのない真実だった。
翌朝。 食堂では、ガルドが戦場のような気迫で料理を並べていた。
「おう、先生、リーナ。特製メニューだ。しっかり食えよ」
カリカリに焼かれたトーストの振動。 とろりと溶けるオムレツの熱。 氷のように冷たいスープ。
ロランは、それらを無心に咀嚼した。 もはや食事は、身体を維持するための「冷却材」と「燃料補給」に近い。 けれど、ガルドが込めた異常なまでの「質感の差異」は、機能不全を起こしかけたロランの脳を刺激し、覚醒させてくれた。
ふと見ると、リーナがロランの顔をじっと見つめている。 彼女の瞳が、僅かに潤んでいた。
(主様……味、やっぱりわかってない……)
ロランの咀嚼は、あまりに効率的すぎた。 味わうための間もなく、ただ嚥下するための運動。 それが、リーナにはたまらなく悲しかった。
「……主様、美味しい?」
リーナが、震える声で尋ねる。 ロランは箸を止め、彼女に「最適」な答えを返そうとした。
「ええ……。温かいですよ」
美味しい、ではない。 温度こそが、今の彼が到達できる唯一の快楽。 その残酷な回答に、リーナは無理に笑顔を作って頷いた。
食事の後、二人は廃墟の屋上へと出た。 かつて繁栄した王都が、眼下に広がっている。
「主様、見て。空」
ロランは空を仰いだ。 そこにあるのは、コントラストの強い「明」の世界。 太陽の場所だけが白く焼け付いている。
「リーナ。今の空は――何色ですか?」 「青だよ。どこまでも吸い込まれそうな、深い青」
リーナは、ロランの瞳の代わりになるように、丁寧に言葉を紡いだ。
「雲は、生まれたての羊みたいに真っ白。太陽は、熟した果実みたいなオレンジ色」
ロランは目を閉じ、その「色」を脳内に描こうとした。 青、白、オレンジ。 かつては当たり前に存在した、鮮やかな世界。
(……思い出せない)
恐怖が、背筋を這い上がった。 色の名前は知っている。定義も理解している。 だが、その色彩が持つ「感覚」が、記憶の図書館から永遠に失われている。
「……リーナ。僕の好きだった色は、どんな色でしたか?」 「……主様」
リーナが、ロランの手を強く、痛いほどに握りしめた。
「大丈夫。主様が忘れても、私が覚えてる。主様の見たもの、全部私が預かっておくから」
彼女の声は、祈りのようだった。 ロランは、もう涙を流す機能さえ失っていたが、心の奥底が激しく波打つのを感じた。
「ありがとう、リーナ。君がいてくれて……本当によかった」
その後、リーナはロランの首に、小さな編み細工をかけた。 銀色の糸で編まれた、狼の形をした守護の印。
「銀狼族のお守り。絶対、生きて帰ってきて」 「ええ。約束します」
その夜。 ロランは一人、暗闇の中で自分自身を点検していた。
味覚、嗅覚の喪失。 色覚の完全な停止。 そして――記憶の浸食。
母、エレナの顔を思い浮かべる。 優しかった声、温かな眼差し。 だが、その肖像画は水に濡れた絵画のように、輪郭から溶け始めていた。
(……まだだ。まだ、戦える)
ロランはお守りを握りしめた。 指先に残る、リーナの編んだ糸の感触。
(せめて、あの子の笑顔だけは……最後まで、消さないでくれ)
灰色の意識の底で、ロランは誰にともなく、ただ静かに願った。




