第59話:ガルドの苦悩
夜明け前の、静まり返った地下水道。 小さな厨房に、低い煮沸音だけが響いていた。
コトコトと、鍋が震える。 まな板の上には、厳選された食材。 だが、それを扱うガルドの顔に、いつもの覇気はない。
(ロラン様は……もう、味がわからない)
その事実が、鋭いナイフのようにガルドの心を抉っていた。
昨日の朝食。 ロランがパンを咀嚼する姿は、あまりに淡々としていた。 喜びも、驚きも、充足感もない。
それは「食事」ではなく、ただ欠乏したエネルギーを補給する「作業」に見えた。
(俺の料理は……あの方に、何も届いていないのか)
料理人としての存在意義。 それは、食べた者の顔に灯る「旨い」という光だ。 だが、ロランの瞳は、どんな贅沢な一皿を出そうとも灰色のまま。
ガルドは、震える手で包丁を握り直した。
「……諦めてたまるか」
味覚が死んだというのなら。 鼻が、香りを拒絶するというのなら。
歯裏を叩く「食感」。 喉を焼く「温度」。
舌が味を感じる前に、脳へと叩きつける「質感」だけで勝負してやる。 ガルドは、取り憑かれたように野菜を刻み始めた。
一時間後。 テーブルに並べられたのは、異様なほどに起伏に富んだ料理だった。
極限までクリスピーに揚げられたパン。 舌の上で崩壊するほどに煮込まれた、高熱のスープ。 芯まで冷え切った、硬質な果実のゼリー。
視界を支配するのは、やはり明暗だけの灰色の世界。 ロランは、無機質な動作でフォークを手に取った。
「……いただきます」
カリッ、と。 乾いた破裂音が、ロランの口内で鳴る。
温かい。それだけだ。 次に、スープ。 トロリとした濃厚な液体。 熱い。それだけだ。
ロランは淡々と、機械的に、灰色の物体を処理していく。 その様子を、ガルドは厨房の隅から、祈るように見つめていた。
(何か……何かを感じてくれ……!)
だが、ロランの表情に変化はない。 彼は最後の一口を飲み干すと、静かに、プログラムされたお礼を口にした。
「美味しかったです。ありがとうございます、ガルドさん」
声音に、体温はない。 ロランはそのまま、次の任務を遂行するかのように部屋を出て行った。
一人残された厨房。 ガルドは、一点の曇りもなく空になった皿を見つめ――。
「……くそっ!!」
拳を、壁に叩きつけた。
「くそっ……! くそっ……!!」
大粒の涙が、作業台にこぼれ落ちる。 どれだけ工夫を凝らそうと、相手は砂を噛むように食べているだけだ。
「俺は……何のために作ってるんだ……。誰も味わってくれない、虚無みたいな餌を……!」
料理人のプライドが、音を立てて砕けていく。 何より、親友でもあったロランが、自分でも手の届かない「遠い場所」へ独りで行ってしまうことが、悲しくて仕方がなかった。
「ガルド」
不意に、背後から声をかけられた。 銀狼族の侍女、リーナだ。
「泣いてるの?」 「……ああ。見ての通りだ」
ガルドは、袖で乱暴に顔を拭った。
「情けねえよな。……ロラン様は、命を削って戦ってるっていうのに」
リーナは、ガルドの隣に静かに腰掛けた。 そして、岩のように大きなガルドの手を、小さな掌で包み込む。
「ガルド。あなたは、優しいね」 「優しくなんかねえよ。何もできてねえんだから」
「そんなことない」
リーナは真っ直ぐに、ガルドの瞳を見つめた。
「主様、温度、わかってる。ガルドがくれた『熱』、ちゃんと届いてる」
リーナの言葉に、ガルドの喉が詰まる。
「味、わからなくても。……主様、ガルドの料理を待ってる。だから、作って」
リーナの手に、力がこもる。
「ガルドが作るのをやめたら、主様、本当に『機械』になっちゃうよ」
「…………」
ガルドは、溢れそうになる涙を必死に堪えた。 そうだ。ロランはまだ、温度を感じている。 その「熱」を供給し続けることが、彼を「人間」側に引き留める唯一の鎖なのだ。
ガルドは、ゆっくりと立ち上がった。 丸まっていた背中が、再び料理人のそれへと戻る。
「……わかったよ。リーナ」
その夜。 ガルドはアルベルトと、拠点の隅で向き合っていた。
「ガルド。君の苦悩は、僕の苦悩と同じだ」
アルベルトの瞳にも、深い陰りがある。
「僕がどれだけ言葉を尽くしても、ロランの心は少しずつ遠ざかっている気がする。彼を救いたいのに、救い方がわからないんだ」
「王子……」
ガルドは、拳を握り締めた。
「俺は、諦めませんよ。あの方が人間らしさを全て失う前に、俺の料理で、その魂を繋ぎ止めてみせます」
「ああ。頼むよ、ガルド」
アルベルトが、ガルドの肩を強く叩く。 男たちの決意が、地下の冷たい空気をわずかに温めた。
翌朝。 ガルドは、昨日以上の執念を込めて厨房に立っていた。
さらに過激な、感覚への挑戦。 極熱のチーズが、氷のように冷たいサラダと口内で混ざり合う。 柔らかなオムレツの中に、粗く砕かれた岩塩の刺激。
「ロラン様」
ガルドは、迷いのない手つきで皿を差し出した。
「今日の朝食です」
ロランは、無感情に一口、咀嚼した。
――その瞬間。
ロランの眉が、僅かに跳ねた。 灰色の視界の中で、情報のバグが起きたような感覚。
高熱と極冷。 柔と、剛。 相反する感覚が、ロランの鈍麻した脳を激しく叩いたのだ。
「これは……」
ロランが、呟いた。 その声に、昨日まではなかった「戸惑い」が混じる。
「温度が、せめぎ合っている。……食感が、うるさいくらいだ」
「はい。楽しんでいただけるよう、工夫しました」
ガルドの言葉に、ロランはガルドの顔を、ゆっくりと見上げた。 そして――。
ピクリ、と。 強張った頬が動き、歪な、けれど確かな「笑み」が浮かぶ。
「……ありがとうございます。ガルドさん」
その言葉には、僅かながらの「体温」が宿っていた。
「美味しい……ですよ」
ガルドは、堪えきれずに視線を逸らした。 視界が滲み、鼻の奥がツンと痛む。
「……よかった」
絞り出すような声。 ガルドは、心に誓った。
たとえロランが、明日自分の名前を忘れたとしても。 この「熱」だけは、彼が生きている限り、送り続けてやろうと。
料理人ガルドの、孤独で熱い戦いが始まった。




