第58話:砂を噛む食事
父、アーサー・フォン・アシュベルとの死闘から五日が過ぎた。
ロランの脳内温度は、37.2℃。 『零式冷却冠』が、かろうじて臨界点を抑え込んでいる。
地下水道の隠れ家。 石壁に囲まれた朝食の席に、ロランはいた。
並べられた料理に、色彩はない。 視界にあるのは、明度の異なる「濃淡」のみだ。
高コントラストな灰色のパン。 沈殿した影のようなスープ。 光を鈍く反射する、石膏めいたチーズ。
すべてが、味を想像させない無機質な物体に見えた。
「主様」
銀狼族の侍女、リーナがパンの皿を置く。
「焼きたてです。……食べていただけますか?」 「ああ。ありがとう」
ロランはパンを手に取った。 指先に、熱を感じる。 それだけが、この物体が「食料」であることを彼に確信させた。
一口、かじり、咀嚼する。
「…………」
固い。 表面のざらつき、中の弾力。 歯に伝わる振動で、食感だけは理解できる。
だが、味がない。 小麦の香ばしさも、バターの豊かな脂質も。 かつて知っていたはずの「情報」が、一つも脳に届かない。
ただ、温かい塊を、無意味に噛み潰しているだけ。
ロランはそれを、石でも呑み込むような心地で嚥下した。 次に、スープ。
熱い。 火傷しそうな熱量が、喉を焼いて胃へと落ちる。 しかし、味はない。
まるで、温められた砂を流し込んでいるような錯覚。
「……美味しいですか?」
リーナが覗き込んでくる。 耳元で聞こえる彼女の声には、震えるような不安が混じっていた。
ロランは、口角を上げようと試みた。 しかし、自律神経の制御が甘いのか、表情がうまく作れない。 引き攣ったような笑みが、顔に張り付く。
「ええ……温かいですよ」
嘘は言っていない。 今の彼にとって、「温かさ」こそが唯一の味覚の代替品だった。
リーナが視線を伏せる。 悲痛な沈黙。 彼女は気づいているのだ。ロランが今、何一つ「食べて」などいないことに。
「ロラン様」
厨房から、料理人のガルドが新たな皿を手に現れた。 その顔は、戦場に赴く兵士のように峻厳だ。
「これを試してください。今朝、一番に仕込んだものです」
皿の上には、不揃いな形をした食材が並んでいた。 あるものは極端に固く、あるものは舌の上で溶けるほどに柔らかい。
「味が死んだのなら、別の道を探すまでだ」
ガルドの瞳に、執念が宿る。
「歯ごたえ、舌触り、喉越し。そして『温度』の緩急。……五感の残滓を叩き起こすように作りました。味を『見る』のではなく、『触れて』ください」
ロランは、その灰色の盛り合わせを見つめた。 ガルドの言葉に含まれた、熱に浮かされるような執念。
「……いただきます」
一つ、口に運ぶ。 カリリ、と小気味よい音が頭蓋に響く。揚げ物だ。 次は、舌の上で冷たく弾ける感触。冷製のアスピックだろうか。
味はない。 それでも、口腔を刺激する多彩な「質感」が、虚無に塗り潰されそうな脳に僅かな波風を立てた。
「美味しいです、ガルド。……面白い」
「……そうですか」
ガルドは、短く応えた。 その大きな拳が、わななき、握りしめられる。
(ロラン様……あなたは、本当に……)
ガルドはそれ以上、言葉を継げなかった。 「味を感じない」という絶望を、ロランはすでに「攻略対象」として淡々と処理している。 それが料理人として、何より誇らしく、そして残酷に思えた。
食事を終え、ロランはゾフィアの工房へ向かった。 『冷却冠』のメンテナンスのためだ。
「脳内温度、37.2℃。平衡状態ね」
ゾフィアが測定器を離し、ふう、と短く息を吐いた。 彼女の目は充血している。不眠不休でデバイスを改良している証拠だ。
「脳の冷却は間に合っている。だが――」
ゾフィアが、鋭く問いかける。
「ロラン。味覚と嗅覚のフィードバックがないわ。……いつから?」
ロランは、無機質な計測数値を見るように答えた。
「三日前からです。ほぼ完全に消失しました」 「……そう」
ゾフィアがノートにペンを走らせる。 その筆跡は、わずかに乱れていた。
「視覚の二階調化に続き、味覚・嗅覚の機能停止。演算オーバーヒートによる神経細胞の壊死……代償の進行は、計算よりも早い」
ロランは動じない。 恐怖も、絶望も、もはや効率の悪い感情でしかなかった。
「次は、何が消えますか?」
ゾフィアの手が止まった。 彼女は、自身の唇を強く噛みしめ、絞り出すように告げる。
「……海馬の接続異常。つまり、記憶よ」
重い沈黙が工房を満たす。
「新しい記憶から順に、あるいはランダムに、回路が焼き切れていく。……故郷の景色、誰かの顔、自分が何者であるかという認識」
ゾフィアが、ロランの双眸を真っ直ぐに見つめた。
「最後には、隣にいる仲間の名前さえ、出力できなくなるかもしれない」
「そうですか」
ロランは、ただ頷いた。 その声には、一切の波風が立っていない。
「問題ありません。戦術データは外部メモリにバックアップしてあります。……僕が僕を忘れても、戦いは継続できる」
「ロラン! あなたは――!」
ゾフィアが叫びかけたとき、工房の扉が叩かれた。 現れたのは、影のように音を消して動く男――サイラスだ。
サイラスは無言で、一通の封筒をゾフィアに差し出した。 ゾフィアがそれを、ひったくるように受け取る。
二人の間に流れる、密やかな空気。 ロランの『タクティカル・ビュー』が、微かな違和感を検知した。
(秘密の計画……?)
だが、ロランは思考を停止させた。 これ以上、脳を回すべきではない。 それに、彼らが自分を救おうと足掻いているのなら、それを暴くのは「最適解」ではないと判断したのだ。
「……午後の作戦会議に行きます」
ロランは背を向け、工房を後にした。
昼過ぎ。 地下拠点の一室で、アルベルト王子と地図を挟んで向かい合う。
「次の標的は、王宮だ」
ロランの指が、地図上の一点を指す。
「父アーサーはあそこにいる。……第127層の先にある『真の構造』。それを引き出すには、命のやり取りを伴う再戦が不可欠です」
アルベルトが、ロランの指先を見つめていた。 その指が、かすかに震えていることに気づいたのだろう。
「ロラン。君は……」
アルベルトの声が、掠れている。
「本当に、まだ行けるのか? 休むべきではないのか」 「大丈夫です」
ロランは、視線を地図から外さない。 その瞳は、以前よりもずっと透き通り、そして冷たくなっていた。 人間らしい迷いや、体温を感じさせる揺らぎが、急速に失われている。
「僕には、まだ『時間』が残っています。使い切るまでは、止まれません」
「…………」
アルベルトは、言葉を失った。 目の前にいるのは、幼馴染のロランだろうか。 それとも、勝利のために最適化された、ただの「魔法演算機」だろうか。
(ロラン……君は、どこまで遠くへ行ってしまうんだ……)
アルベルトは、ロランの手を強く握った。 せめて、その存在をこちら側に繋ぎ止めるように。
「……わかった。僕も行く。君を一人にはさせない」
「ありがとうございます。……温かいですね」
ロランは、その手の温度を噛み締めるように言った。 色彩も味も消えた世界で、他者の熱量だけが、彼が「人間」であることを証明する最後の情報だった。
夜。 ロランは一人、自室で天井を見上げていた。
明暗だけの世界。 すべてが灰色の影。
味覚が消え、嗅覚が消えた。 次は記憶。そして、感情。 自分という存在が、一枚ずつ剥がれ落ちていく感覚。
(もう少しだけ……)
ロランは、深く、深い意識の底で祈った。
(もう少しだけ、人間でいさせてください。……すべてを成し遂げるまで)
その祈りに、応える者はない。 ただ、静かなノックの音が響いた。
「主様、眠れませんか?」
リーナだった。 彼女はロランの傍らに座り、その大きな手でロランの手を包み込んだ。
「……リーナ」 「私、ずっとここにいます。ずっと、一緒です」
リーナの瞳が、暗がりの中で銀色の光を宿している。
「主様が、味を忘れても。匂いを忘れても」 「……私のこと、忘れてしまっても」
彼女は、ロランの手を自分の頬に寄せた。
「私が、全部覚えています。主様の戦いも、主様がくれた言葉も。私が、あなたの『記憶』になります」
ロランの胸の奥で、何かが小さく爆ぜたような気がした。 熱いものがこみ上げ、視界が滲む。
だが、涙は零れなかった。 涙腺を制御する信号さえも、すでに損なわれているのかもしれなかった。
「……ありがとう、リーナ」
ロランは、少女の柔らかな頭を撫でた。 伝わってくる、確かな熱。
その温もりだけが、ロランをこの残酷な世界に繋ぎ止める、最後の錨だった。




