第6話:銀の斥候
夜明け前。 リーナは、砦の北門から音もなく滑り出していった。
灰色の外套を纏い、腰には一対の短剣。 極限まで削ぎ落とされた装備は、彼女が「戦うため」ではなく「識るため」に野に放たれたことを意味していた。
ロランは、冷たい風が吹き抜ける城壁の上から、その背中を見送った。
「大丈夫かな……」 隣に立つアルベルトが、不安げに呟く。
「リーナなら、大丈夫です」 ロランは迷いなく答えた。 「彼女はこの砦で…… いいえ、この国で最も優秀な斥候ですから」
「でも、一人で敵陣に乗り込むなんて……」
「彼女を信じましょう。僕たちがすべきは、彼女が戻る場所を守ることです」
ロランの静かな確信に、アルベルトは小さく頷いた。 リーナの細いシルエットが朝靄の中へと溶け、やがて完全に見えなくなった。
その頃、リーナは荒野を駆けていた。
獣人特有の強靭な脚力が、地を蹴る。 人間の倍近い速度で移動しながら、彼女の五感はフル稼働していた。
風の匂い、土の湿り気、遠くで鳴く鳥の声の違和感――。 あらゆるノイズを精査し、彼女は北へ三キロの地点でピタリと伏せた。
目の前には、帝国軍の巨大な野営地が広がっている。
(多い……)
整然と並ぶ無数のテント。 一、二、三……。 リーナの並外れた記憶力が、瞬時に兵の数をカウントしていく。
そして、彼女の目が野営地の東側に向けられた。 厚い布で覆われた、不自然に巨大な「何か」がある。
(あれは…… 攻城兵器? )
リーナは慎重に距離を詰めた。 風上から回り込み、警備兵の吐息さえも聞き分ける。 そして、布のわずかな隙間から内部を覗き込んだ。
――それは、鋼鉄で補強された巨大な破城槌だった。
先端には羊の頭を模した禍々しい鉄塊。 あれで一撃されれば、この砦の古びた城門など、ひとたまりもない。
(主様に…… 報告しなきゃ)
リーナが音もなく後退しようとした、その時だった。
「――誰だッ!」
鋭い叫びと共に、背後から殺気が飛んできた。 リーナは反射的に跳躍する。 コンマ数秒前まで彼女の首があった場所を、帝国兵の槍が刺し貫いた。
「獣人だ! 斥候を捕らえろッ!」
周囲から怒号が上がり、一斉に兵たちが殺到する。 リーナは迷わず、荒野へと飛び出した。 戦えば勝てる。 だが、それは今の彼女の役割ではない。
彼女は疾風のごとく、砦へと向かってひた走った。
一方、砦ではロランが陣頭指揮を執っていた。
「この位置に、落とし穴を掘ってください」 ロランは城門の前、五十メートルの地点を指差した。
「深さは最低二メートル。底には削り出した木の杭を」
「だが先生、こんなのすぐにバレるんじゃねえか?」 作業にあたる兵士が、首を傾げた。
「バレないように薄い板と土で偽装します。…… 重要なのは配置です」 ロランは地面に、規則正しくも複雑な図面を描いた。
「ちどり格子状の配置。…… これなら、一つの穴を避けようと横に動いた敵が、必ず次の穴の真上に乗る構造になります。 物理的な罠であると同時に、心理的な誘導です」
ロランの明快な解説に、兵士たちの間に驚嘆が広がる。
「先生…… あんた、本当に頭が回るな」 「魔法なんかより、よっぽど頼もしいぜ!」
かつて絶望に沈んでいた男たちが、今や活き活きと作業に没頭している。 ロランはその光景を脳内のデータに書き込みながら、次の演算を続けていた。
その時、城壁からハンスの叫びが届いた。
「ロラン! リーナだ! 戻ってきたぞ、だが追われてるッ!」
ロランは即座に城壁へ駆け上がった。 北の荒原。 土煙を上げながら駆けるリーナ。 その後ろには、十騎の帝国騎馬兵が肉薄していた。
「弓兵、射撃準備ッ!」 ハンスが怒鳴るが、ロランがそれを制した。
「待ってください。距離が遠すぎる。 …… ケント、代わってください」
ロランは新兵のケントから弓を借り受けた。 視界が青く染まる。
――タクティカル・ビュー。
リーナの速度、敵との距離、風向き、そして重力。 すべての変数が、一本の「必中の線」として結ばれる。
「…… 今だ」
放たれた矢は、風を切り裂き、正確に先頭の馬の「足元」を射抜いた。 悲鳴を上げて馬が転倒する。 勢いづいていた後続が、回避できずに次々と巻き込まれ、凄まじい落馬の連鎖が起きた。
「もう一発――」
続こうとしたロランだったが、突如、激しい眩暈に襲われた。 どろりと、熱い鼻血が溢れ出す。
「ロランッ!」 アルベルトが必死に彼を支える。 「もういい、大丈夫だ! リーナは戻ってこれる!」
敵の追跡は止まった。 リーナは最後の力を振り絞り、開かれた城門の中へと飛び込んだ。
「はあ…… はあ…… ッ!」
地面に膝をつき、激しく肩を揺らすリーナ。 ロランはふらつく足取りで、彼女のもとへ駆け寄った。
「リーナ、大丈夫ですか……?」
「主様……」 リーナは顔を上げ、潤んだ瞳でロランを見た。 「報告…… あります。 聞いて」
「後にしましょう、まずは休んで――」
「今、言う。…… 敵は、巨大な破城槌を持ってる」
「破城槌……」 ハンスが顔をこわばらせた。 「あんなもん持ち出されたら、城門が持たねえぞ……」
「他にも、兵士は五千以上。魔導砲も三門。 …… それと、指揮官」
「指揮官?」
「赤い羽飾りの男。冷たくて…… 怖い目をしてる」
リーナの報告に、ロランの思考が加速する。 帝国軍の精鋭。 本気の殲滅戦だ。
「攻撃は…… いつ来る?」
「明後日の、朝」 リーナは確信を持って答えた。 「みんな、鎧を整えてた。…… 嵐が、来る」
「…… わかりました」 ロランはそっと、リーナの銀髪に手を置いた。 「よくやってくれました。ありがとう、リーナ」
リーナは微かに頬を染め、小さく微笑む。 「…… 主様のため。 当然」
その夜、砦の一室で作戦会議が開かれた。 集まったのは、アルベルト、ハンス、ガルド、リーナ。 そして各隊をまとめる兵士たち。
「敵は明後日の朝、総攻撃を開始します。狙いは間違いなく、破城槌による城門突破です」 ロランは地面に描いた略図を示した。
「なら、門を捨てて内部で迎え撃つか?」 ハンスの問いに、ロランは首を振った。
「いいえ。城門は守ります。 …… 密集した敵を叩く、絶好の場所ですから」
ロランの瞳が、青白く、鋭く光る。 「破城槌は重く、運ぶには多くの兵が必要です。つまり、敵はあえて自分たちから『的』になりに来るんです」
語られる緻密な迎撃計画に、場にいた誰もが息を呑んだ。
「本当に…… そんなことが可能なのか?」
「可能です。ただし、一人のミスも許されません。 …… 成功すれば、この砦を守り抜けます」
重い沈黙が流れた。 だが、その沈黙を破ったのは、アルベルトだった。
「僕は、ロランを信じる。…… 君となら、奇跡を起こせる気がするんだ」
「俺もだぜ、先生!」 ハンスが拳を叩きつける。 「死ぬ順番を待つだけの人生は、もう飽きたんだ!」
「私も。…… 主様は、負けない」 リーナがロランの手をそっと握りしめる。
ロランは、胸が震えるのを感じた。 計算外の熱。 演算では導き出せない、他人からの「信頼」という名のエネルギー。
「…… ありがとうございます。 必ず、皆さんを生かしてみせます」
ロランは深く、静かに頭を下げた。
アイギス砦、最後の決戦。 嵐の前の、長く、熱い夜が始まった。




