第55話:仲間との亀裂
翌朝――。 ロランは、静かに最後の準備を整えていた。
多層干渉装置、改良型冷却冠。 そして、机の引き出しに忍ばせた、アルベルトへの遺書。 すべてが、演算通りの位置にある。
地下水道の隠れ家。 色彩を失った灰色の部屋で、ロランは独り、椅子に深く腰掛けていた。
今日が、最後の戦いだ。 そしておそらく、自分という「機能」が焼き切れる最後の日になる。 ロランの心は、凪いでいた。
扉が開き、ガルドが入ってくる。
「ロラン様。朝食を持ってきました」
差し出されたのは、灰色のパンとスープ。 ロランはそれを手に取り、機械的に口へ運んだ。
――温かい。 それ以外の情報は、何一つとして脳に届かない。 泥を啜っているような虚無感さえ、もはや日常だった。
「ロラン様……。本当に行ってしまうんですね」
ガルドの声が震えている。 ロランは淡々と頷き、感情の乗らない声で答えた。
「はい。これが僕の、最後の演算ですから」
ガルドはロランの前に膝を突き、たまらずその細い体を抱きしめた。
「ロラン様……俺は、あなたのために何もできなかった……!」
「そんなことはありません。ガルドさんの料理は――」
ロランの瞳が、虚空を見つめる。
「いつも、温かかったです。それだけで、十分でした」
ガルドの涙が、ロランの肩を濡らす。 熱い。それだけは、確かに感じられた。
――◆――
部屋を出ると、ハンスとケントが待ち構えていた。 二人は鋭い敬礼をロランに送る。
「ロラン殿。俺たちも同行します」
「いえ。今回は僕一人で大丈夫です」
「ですが……!」
ケントが食い下がる。 その必死な眼差しを、ロランは冷徹な「事実」で叩き切った。
「あなたたちが来ても、役に立ちません。空間圧縮魔法は僕にしか対処できない。……今のあなたたちは、ただの足手まといです」
ハンスとケントは、絶句した。 ロランの言葉には、侮蔑も怒りも含まれていない。 ただ、残酷なまでの「演算結果」としての事実だけが、そこにあった。
「……分かった」
ハンスが唇を噛み、涙を浮かべて再び敬礼する。
「だが、俺たちはあんたを信じてる。必ず、帰ってきてくれ」
ロランは答えず、ただ静かに頷いて二人の横を通り過ぎた。
――◆――
廊下の先には、レオナードが立っていた。
「ロラン殿。私は、あなたを尊敬しています」
騎士団長としての威厳を脱ぎ捨て、一人の男としてレオナードは語りかける。
「魔力なき身で、公爵の深淵に挑むその姿。……あなたは、誰よりも騎士だ」
「……ありがとうございます」
「ロラン殿。あなたは、まだ『人間』です。色も味も、感情さえ失いかけていても。……仲間を救うために自らを削るその意志がある限り、あなたは機械などではない」
ロランは何かを言いかけ、結局言葉を見つけられなかった。 ただ、差し出されたレオナードの手を握り返す。 伝わってくるのは、無骨な騎士の、熱い体温。
――◆――
最後に見送りに現れたのは、リーナだった。
「主様。これを、持っていってください」
手渡されたのは、銀色の小さな指輪。
「銀狼族の守護の指輪です。母から受け継いだ、私の一番大切なものです」
「リーナ、これは……」
「形見にはさせません。……必ず、私に返しに来てください」
指にはめた指輪は、ひんやりと冷たかった。 けれど、それを渡したリーナの手は、燃えるように熱い。
「主様……信じています。あなたは勝ちます。そして……」
「……必ず、生きて帰ってきます」
ロランの言葉。それは、演算結果ではなく、彼女に向けた精一杯の「約束」だった。
――◆――
夕刻。 アルベルトがロランの前に立った。
「時間だ。……行こう、ロラン」
「はい、アルベルト様」
多層干渉装置を手にし、冷却冠を深く被り直す。 アルベルトは、ロランの肩に手を置き、その耳元で囁いた。
「必ず生きて帰ってこい。……君が守ろうとしたこの国の行く末を、一緒に、僕の隣で見届けるんだ」
「はい。……善処します」
地下水道の出口へと続く廊下。 そこには、これまで共に戦ってきた仲間たちが整列していた。
ガルド、ハンス、ケント、レオナード、ゾフィア。 そして、リーナとアルベルト。
色彩を欠いた世界。 けれど、そこに並ぶ彼らの存在だけは、どんな数式よりも鮮明に、ロランの脳裏に焼き付いていた。
「みんな……。ありがとうございます」
ロランは深々と頭を下げる。 感情はもう、霧の向こう側だ。 けれど、胸の奥で何かが微かに爆ぜたような気がした。
(これが……仲間、というものか)
自分という「機能」を最後まで支えてくれた、熱い存在。 ロランは前を向き、一人、決戦の地である王宮前広場へと歩み出した。
背後から、リーナの嗚咽が聞こえる。 アルベルトの、祈るような沈黙が伝わってくる。
色彩なき灰色の空の下。 少年は、己のすべてを焼き切るための戦場へ、静かに消えていった。




