第54話:アルベルトの覚悟
その夜――。 アルベルトは、暗い廊下で独り、壁に背を預けていた。
地下水道の隠れ家を包む、重苦しい沈黙。 脳裏には、昼間に聞いたロランの言葉が呪詛のように繰り返されている。
『僕は、もう人間ではないかもしれません』
感情を失くした、あの空虚な声。 アルベルトは、血が滲むほどに拳を握り締めた。
(ロラン……。僕は、一体何をさせているんだ……!)
すべては、自分のためだ。 奪われた王都を取り戻し、自分を玉座に据えるため。 その目的のためだけに、ロランは自らを「演算機」へと作り替え、壊れていく。
世界から色彩が消え。 味が消え。 感情さえもが霧散していく。 そして今、その命までもが、指の間から零れ落ちようとしていた。
「……何のために、僕は王になろうとしているのだ」
自嘲気味な呟き。 そこへ、静かな足音が近づいてきた。
「殿下。……まだ、起きておられたのですか」
現れたのは、近衛騎士団長レオナードだった。 アルベルトは、力なく視線を向ける。
「レオナードか。……君は、ロランのことをどう思う?」
レオナードはしばらく沈黙し、やがて重く口を開いた。
「彼は……稀代の天才です。魔力を持たぬ身でありながら、公爵の魔法を物理で解析してみせた。ですが――」
騎士の目が、悲痛に曇る。
「彼は、自分を犠牲にしすぎている。……あまりにも、危うい」
「分かっている。分かっているんだ。……なのに、僕は彼を止められない」
「殿下」
レオナードが、その場に膝を突いた。
「あなたは、王になるべきお方です。ですが――友を犠牲にしてまで、王座に固執すべきではない」
その言葉は、アルベルトの心の一番柔らかい部分を貫いた。 レオナードの瞳には、忠誠心と共に、一人の人間としての涙が浮かんでいる。
「……ああ。レオナード、その通りだ。……ロランを救う方法は、これしかない」
アルベルトの瞳に、ある決意が宿った。
――◆――
翌朝。 アルベルトは、ロランの部屋を訪ねた。
ベッドの上、ロランはすでに羊皮紙に向かっていた。 色彩を失った灰色の世界で、淡々と数式を刻むその姿は、痛々しいほどに無機質だ。
「ロラン」
呼びかけに、ロランは表情を変えずに顔を上げた。
「アルベルト様。……どうかしましたか?」
アルベルトはベッドの傍らに座り、ロランの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ロラン。僕は……王になることを、諦めることにした」
ロランの筆が、止まった。 空虚な瞳に、わずかな動揺が走る。
「……何を、言っているのですか」
「君が僕のために戦ってくれている。それは、この上なく嬉しい。だが――」
アルベルトの声が震える。
「君を失ってまで手にする玉座に、何の意味があるというんだ。君がいない国を、僕は愛せない。だから、もういいんだ、ロラン。……もう、休んでくれ」
沈黙。 長い、長い静寂の後。 ロランは、冷たいまでに静かな声で言った。
「……あなたは、王になるべきお方です」
「ロラン!」
「それに。……僕は、すでに決めたのです。次の戦いで、必ず、終わらせると」
感情の欠落した、鉄のような意志。 アルベルトはたまらず、ロランの細い体を抱きしめた。
「ロラン……! 君は、君という奴は……本当の馬鹿だな……っ!」
肩に伝わる、ロランのわずかな温もり。 だが、その熱さえも、今は命の灯火が消えゆく前振りのように感じられた。
「……ごめんなさい、アルベルト様」
謝罪の言葉さえも、演算の果てに出力された「記号」に過ぎなかった。
――◆――
その日の午後。 アルベルトは、隠れ家の仲間たちを招集した。
リーナ、ガルド、レオナード、ゾフィア。そして、影から様子を伺う影爪。 全員が、ただならぬ空気を感じていた。
「みんな、聞いてくれ。……ロランを、強制的にでも止めたいと思う」
アルベルトの宣言に、その場がざわついた。
「ロランは限界だ。ゾフィアによれば、あと三日も持たないかもしれないという。……だから、力ずくでも彼を戦場から引き離す」
「主様を……縛り付けるというのですか?」
リーナが、震える声で問う。
「そうだ。……ロランは、自分では止まれない。なら、僕たちが止めるしかないんだ」
レオナード、ガルド、そしてハンスやケントまでもが、重く頷いた。 それが、ロランという少年を「生かす」ための唯一の道だと信じて。
だが、リーナだけは、静かに涙を流しながら首を振った。
「リーナ……?」
「……私は、主様を信じたいです」
「しかし、リーナ!」
「主様は、命を懸けているんです。……それを、私たちの勝手な愛で無駄にしていいはずがありません。主様は勝ちます。そして……必ず、生きて帰ってきます」
リーナの瞳に宿る、狂おしいほどの信頼。 アルベルトは言葉を失い、ただ彼女の震える手を握りしめることしかできなかった。
――◆――
夜――。 アルベルトは、独り王宮前広場へと向かった。
静まり返った広場。 冷たい月光が、石畳を青白く照らしている。 アルベルトは広場の中央に立ち、天を仰いで叫んだ。
「アーサー公爵! ……姿を現してください!」
静寂が数秒続き、やがて夜の闇を裂くように空間が歪んだ。 現れたのは、鉄黒色の鎧を纏った巨人――アーサー・フォン・アシュベルだった。
「アルベルト殿下。……こんな夜更けに、何の用ですかな?」
「お願いがあります。……ロランとの決闘を、止めてください」
アルベルトの必死の懇願。 アーサーの目が、鋭く細められた。
「なぜ、そのようなことを」
「ロランは限界なんです! 次の戦いで、彼は死んでしまう……!」
アーサーは沈黙した。 風が吹き抜け、広場に枯葉が舞う。
「殿下。……私も、それは分かっています」
「ならば……!」
「だが。ロランは止まらんよ」
アーサーの声は、どこか悲しげに、それでいて確信に満ちていた。
「私が断っても、彼は別の手段を講じて戦おうとするでしょう。……それが、あの子の出した答えなのだから」
アルベルトは、唇を噛んだ。 分かっていた。ロランという「演算機」は、解を導き出すまで停止することはない。
「では、どうすれば……。僕は、何もできずに見守るしかないのか!」
「殿下。あなたができることは、一つだけだ」
アーサーが、アルベルトの肩に大きく、重い手を置いた。
「ロランの覚悟を、受け入れることです。……あの子は、あなたのためにその命をチップとして賭けた。それを無駄にしてはならない」
アルベルトの瞳から、涙が零れ落ちる。
「殿下。……あの子が命を懸けて守ろうとしたこの国を、あなたが正しい形に変えるのだ。……それでこそ、王だ」
その言葉に、アルベルトは顔を上げた。 アーサーの瞳に宿る、ロランへの奇妙なまでの「期待」。 アルベルトは、深く、深く頷いた。
「……分かりました。僕は、逃げない。……必ず、王になります。そして、ロランの想いを継ぎます」
「それでいい、殿下」
アーサーは満足げに微笑むと、再び空間に溶けるように消えていった。
独り、広場に残されたアルベルト。 彼は夜空を見上げた。
灰色の空――ではない。 アルベルトの目には、まだ鮮やかな夜の色が見える。 月光の白、星々の煌めき、深い紺碧の闇。
ロランが失ってしまった、この世界の美しさ。
(ロラン……。君が見られなくなったすべてを、僕がこの手で守ってみせる)
アルベルトは、力強く拳を握り締めた。 親友の覚悟を受け入れる。 それが、これからの戦いにおける、彼の唯一の戦法。
明日――。 すべてを賭けた、最期の演算が始まる。




